海苔に命を懸けた男の一代記

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海苔との出会い

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海苔との出会い

当時の平長は盛んなもので、店の前には馬力がズラッと並んでおり、店員も二十八人いた。さて、夜学にいく話だが、昼間精一杯働いているから体力がもたない。それでも夢中で働いた。平長のおやじも感心して「よく気がきく子だ」と褒めてくれ、乾物でも軽いものの係に回してくれた。これが海苔との出会いになったのだが、その少し前にお前は力がないから軽いものを、というので、吉野葛の販売をやらされた。

前に荷台のついた三輪車に葛を積んで餅菓子屋に売り歩くのだが、代金を一銭や五厘銭でもらってくる。夜帰ってきてから、その銭を区分けして数えるのだが、疲れているし眠いしで、勘定がなかなか合わない。銀行へ持っていっても「こんな小銭ばかりじゃダメだ」と怒られる。大変な商売だと思った。

その後に海苔を担当したのだが、最初は寿司屋回り。「本当は問屋は寿司屋回りをしてはいけないのだが、お前は特別だ」とおやじはいってくれた。

私が平長に入ったのは大正十三年のことだが、当時は平長は乾物全般を扱う大問屋で、海苔もたくさん商っていた。大阪で一番多く海苔を扱っていたのが加藤徳、次が松原商店、三番目が平長だった。海苔担当になった私は、十帖缶に見本を入れて寿司屋を回ったのだが、売れる日もあれば全然売れない日もある。大阪の寿司屋は東京と違って太巻きが多い。私は海苔の売り方を教わり教わりしながら励んだが、時季ものが忙しい時には、丁稚車(でっちぐるま)を引っ張って他の商品も手伝った。

乾物というのは時季ものが多い。夏、干瓢が終われば、秋には千切りというように。知多ものとか小牧へんでとれた千切りが湊町の駅に着くと、皆それを引き取りに行く。置いておくと千切りは蒸れてしまうから、その日のうちに売り切らなければならない。今なら冷蔵庫があるからいいけれど……。その千切りを木津や雑喉場(ざこば)、天満などの市場へ売りに行く。とにかく平長では千切りを随分扱っていた。

その頃、大阪にはまだ宮崎産は入ってこなかった。船で天保山の港に着くまでにダメになってしまう。当時の船は遅かったし、船底は空気が通わないから生乾きの千切りは蒸れて腐ってしまう。それで随分と損をした人もいたようだ。

まぁ、それからもいろいろな商品を扱ったが、当時の海苔の利益は莫大なものだった。揖保(いぼ)の糸の五貫箱一箱をよく売っても利益が五十銭でしょ。五十銭も儲ければ鬼の首を取ったような喜びだ。ひどい時には二十銭の儲けしかない。苦労して配達してこの始末だ。これでは仲仕(運送屋の下働き)も雇えないから丁稚(でっち)に運ばせることになる。朝から晩までその忙しいこと。よく身体が続いたと思う。仲間ともうやめよう、もうやめようと毎日話し合ったものだが、とうとう我慢し抜いた。

当時の給料は一か月に一円五十銭だった。またその頃、月一回の公休日ができ、その日には別に五十銭くれた。これでどこかに遊びに行ってこいというわけだ。しかし、丁稚(でっち)には給料でなくお小遣い五十銭だけだから、私のように一円五十銭ももらっているのは高級社員だ。これは冗談で、今から考えるとひどいものだった。

公休日ができたのは大正十四年のことだ。それまでは無休。東京などでは、後に私が上京した頃にもまだ無休だったから、公休日については大阪の方が進んでいた。公休日制は後の日本海苔の池内庄蔵さんらが大正十三年から運動して、やっと翌十四年から実施された。私が平長に見習いとして入ったのが大正十三年九月、正社員になったのが十四年四月だから、ちょうど公休日実施の頃だ。とにかく、週休二日制が普及した現在では考えられない労働条件で、皆よく辛抱したものだ。

当時の服装だが、店員は厚司(あつし)、前掛け、帯を支給されるが、着物は自弁だった。しかし、丁稚(でっち)には着物も支給された。私は、まだその頃はおカネを少しは持っていた。郷里を出る時、おじいさんから五十銭玉を百円もらったのがあったのでね。

公休日制定運動の中心になった池内さん、それに尾本さん、村瀬さんはもう偉かった。尾本さんはカネ小・吉野善定商店の一番番頭、池内さんが二番番頭、村瀬さんは加藤徳の四番番頭くらいで、早田さんが二番番頭だった。これらの先輩たちが公休日の実施に骨を折ってくれた。

その頃、もう大阪乾物青年団という組織があって、運動会など盛んにやったものだ。靭(うつぼ)とか天満とかの市場の対抗戦や連合運動会など、なかなかハイカラだった。そうした活動のリーダーたちが業界に残って、後に指導者になったわけだ。当時、私ら若い者たちは、これらの先輩たちは偉いなぁと思って尊敬したものだ。

それからもずっと海苔を担当していたが、やがて平長と中野商店の中野安太郎さんとが合弁で新しい海苔屋を始めることになった。経緯をいうと、中野さんのおじいさんに藤楠さんという人がいて、九州海苔を買い付けて平長に売っていた。そして、中野さん自身は朝鮮総監府指定商になって、専ら朝鮮海苔を輸入し、平長がその荷受けをしていた。当時の朝鮮海苔指定商は二十社ほどあった。

やがて、藤楠さんが九州海苔の買い付けに手が足りないから、清吉を手伝いに使わせてくれないかと頼んできた。その頃、私は清の下に吉をつけて清吉と呼ばれていた。藤楠さんは私の家内のおじいさんにあたるのだが、清吉は気がきいた子だからひとつ海苔商いを仕込んでやろうというわけだ。私は平長に籍を置いたまま藤楠さんの手伝いをすることになった。まぁ、今でいう出向社員みたいなものだ。

今の高道や滑石やら熊本県の城北地区へ行って集荷し、箱詰めをするのだ。当時は漁連などないから、生産者と直接値決めする。いわゆる浜買いだ。漁連の代わりに各浜に総代さんというのがいて、そこに荷を集めて値段を決める。そこまではいいのだが、さぁ箱が無い。藤楠さんが箱を探しに行くからついてこいという。何のことはない、タバコを入れた木箱の空き箱だ。朝日とか敷島とかゴールデンバットとかの空き箱だ。それをたくさん集めなければならない。海苔箱や印籠箱ができたのはずっと後の話だ。

さて、海苔を入れる、いわゆる印籠箱、茶箱が静岡でできたのは昭和五年で、大正時代はまだタバコの木箱の空いたのを集め、中に新聞紙を敷いて、それに海苔を詰めていた。その空き箱を集めるのに一苦労したものだ。普通の箱で二銭か三銭、大きいもので五銭だったと思う。敷島の箱などはカサのない海苔だと六千枚くらい入った。まぁ、普通の箱でも五千枚は入った。

その頃、熊本では今の浦島海苔、松本さんの佐一さんは次男坊で、その上に直紀さんという長男がおり、ヤマ直といっていた。それに坂本栄さんの兄の三郎さん、こういった人たちが九州のボスだった。しかし、その時代の九州海苔はまだ微々たるもので、何といっても東京湾内産が圧倒的に多かった。

第一、その頃の九州海苔ときたら砂が一ぱいで、よほどうまく買って、うまく売らないとどうにもならない代物が多かった。浜で潮がさーっと引くと砂を噛んでしまう。よく洗えといってもなかなか思うようにいかない。地方向けの太巻き用の海苔などは砂を知らずに食べてしまうのではないかと思うほど…… 。でも、すごく安く、一帖二銭か三銭だ。東京湾内ものが十二銭か十三銭の時代にだ。

しかし、前原、加布里(福岡県糸島郡)あたり、つまり今の玄海の海苔は砂がない。その代わり色がすぐにさめてしまう。潮が強いのだ。あのへんにもよく行った。藤楠さんが開拓した浜だ。それから大分の中津にも開拓に行ったのだが、あのへんもどうしても砂が混じる。結局、加布里の海苔だけ砂がないから売れる。「清吉の持ってくる海苔はジャリジャリだ」なんていわれたら大変だから、専ら加布里や八代あたりの海苔を集めた。しかし、すぐにいわゆるハトが飛んでしまう。白い斑点が出てしまうのだ。