海苔に命を懸けた男の一代記

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平中商会の東京店ヘ

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平中商会の東京店ヘ

当時は、もちろんまだ建てヒビだから病気もつきやすい。そのうちに中野安太郎さんが藤楠さんに「おじいちゃん、もうこんな海苔を扱うのおやめなさい。ちっとも儲からないで、骨ばかり折れるものを」といって、朝鮮海苔をもっと東京で売ろうということになった。ある夜、平長さん、中野さんの二人が将棋をさしている。五十銭ずつ賭けて。その話を聞くともなしに聞いていると「東京へ店を出そうじゃないか。大阪みたいに海苔が売れないところでやっていても仕様がない。東京はよく売れるよ」といっている。二人は一決して、共同で東京に店を出すことになったらしい。これが平中商会の発端だ。

合弁で平中商会を設立し、東京進出を決めた平長さんと中野さんは、東京下検分から帰ってくると、日本橋の江戸橋のすぐそばに適当な店があるという。今の五所さんの店の近くだが、関東大震災の後で江戸橋は架かったが昭和通りはまだ工事中だった。

二人の話を聞いていると「東京に店を出しても、二人がしょっちゅう東京に行っているわけにはいかない。番頭のいいのを探して派遣しなければ」といっている。そして、清吉を連れて行ってやろうという。私は初めて東京へ行くことになった。昭和二年、満十七歳の時のことだ。平長に入ったのが十三歳の時だから、経験四年目のことである。

さて、肝心の番頭探しだが、まず池内さんに白羽の矢が立った。しかし、主人の吉野さんがノーという。そこで、カネマル津島さん、今の丸山さんの本家筋だが、その津島さんと平長が取引があったので、そこの番頭さんの大島さんという人が気がきいていていいということになったが、その人も何かの事情で沙汰やみになってしまった。

店の方もいいところが見つかったとはいうものの、江戸橋から神田の和泉橋までビッシリと震災被災者のバラックが建っている始末。目をつけた店もまだ建築中だ。その店を売れといったが売らないというし、じゃあ貸せといったら、そんな頼りないものには貸せないという。そのうちに店はでき上がった。花岡茂夫さんが快く保証人を引き受けてくれ、店を借りることができた。あの時は嬉しかった。

さぁ、店は確保したが番頭はまだ決まらない。また平長と中野さんが話し込んでいる。「清吉を使おうよ。あれなら仕込めば一番モノになるよ」……。夜十時半から十一時頃、お茶を持っていくと、そんな話が聞こえる。襖のかげで聞いていると、結論はどうやら「あのチビを使おうよ。きっとモノになる。うちで一番気がきいているもの」。私はその話を聞いて慌てて下に降りてしまった。

間もなく平長に呼ばれて「清吉、お前東京に行くか。中野さん側は中野さんが代表として東京へ行く。平長側はお前が代表のつもりで一生懸命やれよ」といわれた。私は「有難うございます」といって、喜んでこの大役を引き受けたわけだ。こうして昭和二年、平中商会は名実ともに誕生したのである。

それから私は皆さんに教わって信州の半期を雇って店で使った。もう、私は完全に番頭だが、何しろまだ十八歳、半期の連中の方がもちろん皆私より年上だ。中野さんは旅館住まいだから、大きな一戸建ての店は私一人住まいである。一階を全部取り払って土間にし、海苔をたくさん置けるようにした。

東京の店ができた最初の頃はまだ道ができていないから、江戸橋の角から店まで海苔を担いで運ばなければならないので随分苦労した。扱っていた海苔は朝鮮や和歌山、九州で西物が多かった。それが一番儲かったから……。荷物は貨車で汐留に着く。それを馬車で店まで運ぶのだ。

昭和二年は東京湾が大不作でね。荷物が着くのを待ちかねるように大勢の人たちが買いにくる。それは面白いように売れた。場違いでも砂のない、いいものは色があった。それがまたとても安い。山谷の長谷川さんのお父さんなどは、とくによく買ってくれたものだ。もう、その頃は半期を十人、忙しい時は二十四、五人も雇っていた。世話人さんに手を回してね。