海苔に命を懸けた男の一代記

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生い立ちから平長入りまで

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生い立ちから平長入りまで

私は、明治四十三年九月十五日、兵庫県加西(かさい)郡下里村三口(みくち)、今の加西市三口町で生まれた。私も、いつの間にか七十八歳、もう一年二か月すれば八十歳になる。人様には「元気だ、元気だ」といわれるが、随分弱った。とくに夏暑いのがダメだ。

私の生家があった下里村は農村地帯で、西国二十六番の札所・法華山の麓だ。先祖は豪族・赤松一族の一統で武士だったが、打ち続く戦乱に嫌気がさして、あのへんの武士はみんな百姓になってしまった。今でも生家があった付近には、戦乱の名残りの塚がたくさん残っている。塚を掘ると、当時の鎧や兜などがたくさん出てくるが、それを売ったりした人は、不思議とみんな潰れるか、跡が絶えてしまう。まあ、祟りとでもいうのだろう。赤松一族は、太閤さんの三木攻めにも協力したので、殺されずに済んだ。

私は、そこで小学校を卒えたが、その頃、政治や選挙が大好きな祖父や父が県会議員などをやって、身代を潰してしまった。井戸塀政治家だったのだ。没落してペンペン草が生えてしまったので、私は幼な心にも、こんな所にいても仕様がない、と思って、家を飛び出し、まず神戸へ行った。神戸一中にも受かったのだが、何しろおカネがない。中学は諦めて新聞配達などいろいろなことをやったが、どうにもならない。

一旦、田舎に戻り、高等小学校に通い始めたが、それも長続きせず、またも家を飛び出してしまった。今度は大阪にいる義理の伯父さんを頼っていった。「お前、勝手に飛び出してきたって、何かやらなきゃ仕様がないじゃないか。俺の商売をやれ」という。伯父さんは襖(ふすま)の問屋をやっていた。

私「こんな商売は嫌だ。俺には向かない」伯父さん「勝手にしろ」。そんな折に靭(うつぼ)仲通りを歩いていると、大きな海産物問屋が軒を連ねており、その一軒に「小店員入用」という札が下がっている。早速入っていくと、凄く忙しそうな大店(おおだな)で、広い店の真ん中をトロッコが走っている。店の人に「使ってくれないか」と頼むと、番頭らしき人が「お前さんみたいな小さいボンさん、あきまへん」。私がムッとして「だって、お宅、小店員入用、小さい店員入用と書いてあるやないか」というと、えらく怒られて「小さい癖に生意気やなあ、あかん、あかん」。

そこで私は「お腹空いてるから、何か食べさせてくださいよ」といって、図々しくも店先に腰を下ろした。間もなく二階から主人らしい人が下りてきた。

その主人は私に「ご飯ならいっぱいあるよ。食べていけよ」という。皆が食べ終わったところで、女中さん「お新香でいいかい?」。私「ええ、何でも結構です」というわけだ。その店が平長だったのだ。平長の主人曰く「面白い子じゃないか。使ってやれよ。もし店で使いものにならなかったら、本宅の女中の下でもいいから置いてやれよ」。こうして私は、その日の夕方、大黒橋の本宅に連れていかれた。

本宅の女中部屋の隣に男衆(おとこしゅ)の部屋がある。そこへ入れられた。主人が「お前、学校いけよ。靭(うつぼ)商業に入れてやるよ」といってくれた。私も本宅で女中の下働きのようなことをしていても仕方ないので「店で働かせて下さい。それで靭(うつぼ)商業の夜学にいきます」と頼んだ。

ふた月ほどすると店に出してもらったのだが、とにかく乾物というものは重い。どれもこれも十貫、二十貫だ。一番軽い干瓢だって一梱十貫だもの。千切りも胡麻も十貫単位。動かせるわけない。

平長では素麺は揖保(いぼ)の糸と飾選(しきせん)の糸を扱っていたが、たまたま私の伯父さんも飾選(しきせん)の糸を作っていたので、平長とは知り合いだった。その伯父さんが平長に「実はうちの甥が行方不明になっているんだ」といって、私の特徴を話したらしい。平長のおやじ「そういえば、うちにいるのとよく似ているなぁ」というわけで、私が平長にいることがバレてしまった。伯父さんは「そうか。じゃあ面倒みてやってくれよ」と平長のおやじに頼んでくれた。