海苔に命を懸けた男の一代記

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海苔屋になって良かった

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海苔屋になって良かった

随分と長い海苔業界生活だったが、その間にはさまざまな思い出がある。どちらかというと、辛く苦しい思い出の方が多いが、もちろん、喜びもあった。まず、海苔屋になって良かったなあ、と思ったのは、やはり韓国海苔と深い関わりを持ったことだ。もちろん、海苔のことも判ったのだが、それよりも、世間というものがよく理解できたことだった。植民地時代の朝鮮を見て朧気ながら判ったことは、役人の指導だけではダメだ、やはり業界人が親身になって指導しなければいけない、ということだった。昭和三年から朝鮮に行き始めたのだが、五年くらいになって、漸くそのことが判って来た。

そして、朝鮮海苔については、もっと誰かが強力にリードしなければいけないと主張した。私は、指定商組合長の中野安太郎さんの代理だったが、おやじさんに「今のままではダメだ」と率直にいった。おやじは「小僧の癖に何をいうか」と、最初は全然相手にもしてくれなかったが、私は「小僧だろうが大人だろうが、いうことはいわせてもらう。今のように、日本の海苔業界がマチマチであってはいけない。大阪は大阪の好きなように、広島は広島、東京は東京が好きなような海苔を朝鮮に作らせているようではダメだ。早く全国統一の規格にしなければいけない」と力説したものだ。

当然、これには反対の声が上がった。しかし、私は、それを乗り越えて、まず判の統一に乗り出した。私の企てが成功に向かうと、おやじは「良くやった」と褒めてくれた。誰かがいわなければ朝鮮の生産者が判の統一などやるわけがなかった。私の主張と努力で朝鮮海苔は次第に小判に統一されて行った。生産者を説得するのに随分と苦労したものだ。しかし、生産者にしてみれば、小判の方が有り難いわけだ。海苔の量が少なくて済むのに、大判と同じ値段で買ってくれるのだから、生産者も喜んで協力してくれた。私は、莞島、長興、高興といった主力漁場の漁業組合長クラスを説得して小判に転換させた。

だが、面白くないのが大阪の連中だった。「宮永のやつ、余計なことをしやがった」というわけだ。当時、中島助三郎という人が高興漁協の理事をやっていたが、「宮永君、小判統一は良いことだ。大阪の連中のいうことなど気にしないでやれ。君のいうことの方が理に叶っている」と励ましてくれた。日本でもお馴染みの朴魯吉さんも、当時、莞島の組合の副理事長をやっていたが、やはり小判統一に賛成してくれた。

しかし、朝鮮海苔の小判統一に対する日本の指定商組合の反発は強く、一気に全面実施することは出来なかった。私も、この改革は徐々にやらなければダメだと思い、まず二割程度の小判転換から始めた。結局この改革は成功したのだが、小僧の分際で一つのことを成し遂げ、自分の意見が通ったことは、物事のやり甲斐を感じると同時に、大きな自信になった。十二年の水産物統制規格では、全ての海苔が小判、つまり東京判に統一された。

この時だった。「ああ、海苔屋になって良かったなあ」としみじみ感じたのは……。関東の連中は、みんな小判統一を喜んでくれた。 当時の東京判と大阪判の大きさの違いは大変なもので、みんな不便を感じていたものだ。とにかく、自分の主張が通り、みんなに喜んでもらえた嬉しい思い出は、今も強く印象に残っている。苦労のし甲斐があったという喜びだろう。何しろ、当時は、未だ二十代の若造だったのだから……。

とにかく、小判にすれば、原料海苔が少なくて済むから生産者には喜ばれ、運賃が軽減するといって流通サイドからも歓迎されたものだ。運賃も倉庫料も当時は高かったから、その軽減が出来るということは、今でいうと大変な合理化だったわけだ。

若い時は、こんな喜び、生き甲斐もあったが、業界の中枢、指導的な立場に立ってからは苦労のしっ放しだった。とくに昭和二十七年、韓国の連中に見本入札で欺かれて、当時のカネで一億円の損をした時は実に悲しかったし、苦しかった。しかし、それ以来、韓国海苔は、十四年間にわたってカーゴレシート方式で輸入が行われるようになった。それにより、業界の人たちは少しも損をするようなことはなく、幾らかずつでも必ず儲かるようになった。業界トップとしての責任を果たせたのは幸せだったと思う。全て私が値決めをし、商社や韓国側と折衝し、カーゴレシート方式を徹底して実行した。二組、三組、四組が何をいっても「業界は斯くあるべし」という姿勢を貫いて「あなた方が全て利益を出さなくてはいけないんだ」という信念のもとに、公取にも引っ掛からないように苦労して折衡したものだ。

皆さんからいろいろなことをいわれた。しかし、私は国内同士の取引ならいいけれど、ドルを使って買う輸入物資で無益な競争をすることはない、向こうが一本で来るんだから、こちらも一本にまとまって事に当たるのが当然ではないか、というのが私の信念だった。これを徹底的に貫いた。それと、全国問屋連合会をつくって、各地の生産地問屋を守ること、地盤を荒らし合わないこと、この二つに心掛けた。

後年、私は全国海苔問屋組合連合会の指導者の一人になったが、私は、各地組合の立場を守ること、強い者がかき回さないこと、そして問屋機構をいつまでも守り続けることを力説したが、このことは今も守り続けられていると思う。力づくでいけば、東京が勝つに決まっているが、連合会を作ったからにはそれではいけない。私は、幹部連中に何時もこのことをいい続けてきた。これが私のささやかな功績だとも自負している。

前にも触れた昭和二十七年の輸入韓国海苔の不良品による一億円の大損にしても、それは大変なショックだったが、その時まず咄嗟に思ったことは、「これでくたばったらいけない!」ということだった。「海苔業界を代表する一人になったのに、これで挫折したら絶対にいけない」と思って歯を食いしばって奮起したものだ。業界では「さすがの宮永も、今度ばかりはもうダメだ」と専らの評判だったようだが、私は絶対に人に迷惑をかけてはいけない、石に噛りついてでも再起してみせる、と心に誓ったものだ。

もちろん私はそれまで歩んできた自らの道に反省もした。今まで有頂天になり過ぎたのではないか、いわば怖いもの知らずが今度の結果を招いたのではないか、と。同時に、これは私に与えられた一つの大きな試練だとも思った。コンクリートの壁に頭をぶっつけて、眉間が割れたんだと思った。自分は、今までのぼせ過ぎたんだ、この辺で冷静になって元に戻り、一生懸命働いて出直そう、とにかく努力しようと、逆に奮起したものだ。

今まで贅沢三昧していたのを引き締めると同時に、山本さんや東食さんにも協力を求めた。皆さんは「何も業界に迷惑を掛けたわけではない。頑張って再起しなさい」と励ましてくれた。嬉しくて有り難かった。この事件を試練と考え、過去を反省したからこそ再起出来たのだと思う。あの一件で私は真の人間になれたのだ。そして、人生観も変わったし、それまでは怖いもの知らずだった自分が悪かったと心底から反省もしたものだ。それまでは、役所関係でも何でも、自分の思うようになっていたが、そのへんが間違いのもとだったとも思った。とにかく、第一歩から出直そうと決心した瞬間、過去がふっ切れて、自分でも驚くほど人生観が変わった。

それから初めて人様に頭を下げることを知ったのだ。それまでは、小さい身体の癖に、「よーし、みんな束になって掛かって来い!」というような態度と勢いだったのだが……。大損の事件は、丁度四十二歳の厄年だったのだが、その年は倉庫も類焼し、それは大厄年になってしまった。鉄槌をもろに頭に受けたような一年だった。

次に私が考えたことは一億円の損害から立ち直るにはどうしたらいいかということだった。その結論は「もっと人間味を持たなければいけない」ということだった。今でも、それに尽きると思っている。何度もいうようだけれど、一億円損害事件は私の人生の大きな転機になった。その頃の面白い話がある。「宮永産業は、もう潰れる。不渡りを出すぞ」という噂が広まって、当時は返すことになっていた印籠箱を返してくれず、箱付きで売ってしまう得意先が多くなった。「どうせ間もなく潰れるんだから構やしないさ」というのだろう。片っ端から印籠箱付きで売ってしまわれた。私は切歯扼腕したが、これも不徳の致すところと思って耐えたが、人の弱みに突け込む連中が本当に口惜しかった。その連中は返さなかったうちの印籠箱で随分カネを手にしたはずだ。

人問、落ち目になると随分酷い目に遭うものだとつくづく思った。それも、見ず知らずの人たちなら仕方ないが、みんな以前に面倒を見てやった連中ばかりだ。世の中ってこんなものかと思ったものだ。立ち直ってから、その連中と呑んだ時に「なあ、お前たち、随分うちの印籠箱で呑めたろうなあ」と皮肉混じりにいって欝憤を晴らすと、その連中は「うわあ」といって閉口していた。

それにしても、この印籠箱の一件は口惜しかった。首吊りの足を引っ張る、という譬えがあるが、まさにそれだ。当時の新品の印籠箱は一千五百円、うちは大量注文していたから一千二百五十円くらいだったと思う。それが何百箱も返って来なかった。これも、私の人生の一こまだろう。

人生というものは、判らないものだとつくづく思う。私のように、一度は再起不能とまでいわれた人間が立ち直って、八十歳の今日まで無事に生き抜いているのだから……。とにかく昭和二十七年の事故は、私の人生を大きく変えた。人に頭を下げることを知らなかった私、そして、あのままいったらどうなっていただろうかと思うほど儲けていた私がすっかり変わってしまったのだ。まあ、人生八十年、苦楽を乗り越えて、こうして過去を語れる私は幸福者だと思う。