海苔に命を懸けた男の一代記

わが海苔人生

Home わが海苔人生 産地別思い出話編

大森、品川、神奈川昔ばなし

SHARE:

大森、品川、神奈川昔ばなし

さて、ここでもう少し大森の話をして見よう。私が上京した昭和初期の大森は、ヤマ十さん(島田由兵衛商店)の全盛時代で、それは大層な勢力だった。当主の由兵衛さんが大森の町長をやっていて、海苔業界だけでなく地元の有力者でもあった。その他の業者では今の大森水産のところにあった仲田屋、町半(町田半兵衛商店)、林屋、松尾、三忠、綱忠、三本木などのお店が主だったところだった。これらの店は、一般の仲買いに売るほか山本海苔店、山形屋、それに三越、松坂屋というように納入先が画然と分かれていた。それは色分けがはっきりしていた。当時の大森の海苔漁場は広大で生産量も多かったから、こういう大手問屋が数多く成り立っていたのだ。

戦前の大森は、問屋だけでなく生産者も強力で、江戸川のへんまで漁業権を広げていたのではなかろうか。何しろ、生産量がズバ抜けていたから、問屋の倉庫がズラッと並んで、それは立派なものだった。とくに、西尾さんという問屋などは、広大な倉庫を持っていて、いわゆる海苔屋の質屋的な機能も果たしていた。つまり、海苔を担保にして問屋におカネを貸すわけだ。私も最初の頃は借りに行った。カネを貸してくれるのと同時に、場違いの海苔を囲え、と勧めてくれる。「この海苔は安いから、囲っておくときっと儲かるよ」という具合に、カネを貸す一方で自分の商売もしていたわけだ。

西尾さんの店には天櫃(てんびつ)という五坪くらいの倉庫が幾つもある。まあ、冷蔵庫の大きなものと思えばいい。その中に乾燥した海苔を直かに入れるのだが、とにかく大きい倉庫だから、本場物でも八万枚、朝鮮海苔だと二十万枚も入る。大森の問屋は大抵は天櫃を持っていた。印籠では保たないが、天櫃だと暖かい時期にビッシリと詰めて、あと扉に目張りをしておくと変色もせず、海苔がよく保つのだ。小さい天櫃でも、一万五、六千枚は入った。それに入れておけば、ヒネでも一年くらいは楽に保った。何しろ、海苔は空気に当たると直ぐに変色するものだから……。

話は戻るが、海苔を担保に、西尾さんからおカネを借りると、利子はもちろん、倉庫料も払う。カネが出来て借金を返済に行くと、天櫃から質草の海苔を出して貰う。六千四百枚入る空箱を持って行き、それに入れて持って帰るわけだ。中には西尾さんから借りたカネを返せずに、いわゆる質流れになったものもあったが、西尾さんはそれを売りに出す。そうした品物は東京へは売らずに、関西方面に売っていたようだ。

戦前の大森の繁盛ぶりは、今、話した通りだが、戦争が始まって統制になると、以前に話したように、大森の組合は東京と合併し、私がいた平中に事務所を置いた。二十二年の十月に統制が解除になり、皆さん商売を始めたが、どうも大森は戦後の立ち上がりが遅れたような気がする。その点、東京は、韓国海苔の輸入もあったせいか、戦後の復活は早かった。

戦後の大森というと、大森水産の創業を思い出す。先にも話した仲田屋と長門屋、中清、角竹は別個の店だったが、それを一本にしようということになった。昭和二十五年のことだったが、山本徳治郎さんや岩崎勇次郎さんが「これらの四店は、いずれも山本海苔と関係が深いし、とくに仲田屋は山本の本家筋に当たるから、四社合同の新会社を作って強化しよう」ということになり、大森水産が誕生したわけだ。

大森水産の発足に先立って、元東食にいた五味真喜治さんが私らの出資で京浜水産工業を創業し、羽田の海苔を中心に商いしていたが、間もなくその京浜水産も大森水産に合同し、結局五社合同の大森水産ということになった。だから五輪のマークを使っているわけだ。同社が山本海苔店の仕入れ部門として隆々たる発展を遂げていることはご承知の通りだ。

次に品川について触れてみよう。

品川は、どちらかというと、東京にも付かず大森にも付かず、といった具合で、寿司海苔、焼海苔に特色を出して商売していた。しかし、早くから漁場が埋め立てられて生産が少なくなり、東京・大森ほどの力を発揮出来なくなった。それでも、丸治さんなどが大手で、寿司ものでは大きな商いをしていたし、駿河屋さんも当時は有力な店だった。何しろ私が上京した昭和初期には、品川の八つ山の直ぐ下まで海だった。それがどんどん埋め立てられて漁場が失われていった。品川は埋め立ての犠牲者第一号といっていいと思う。従って、地元問屋は場違い物を扱わざるを得なくなったのだ。品川の問屋は、私の店にも随分と上総物を買いに来たものだ。

その点、大森は漁民の力が強く、埋め立てには最後まで反対したものだ。昭和三十七年まで海苔を採っていた。私ら問屋連合会でも、埋め立て反対や補償を随分お役所に陳情したものだが、生産者には補償金を払っても、問屋には全然補償などしてくれない。大事な商材が失われるという点では、生産者も問屋も同じなのに……。水産庁の言い分が振るっていた。曰く「地元の海苔が採れなくなったって、海苔は日本のほかのところでも採れるし、第一、宮永さんなどは韓国海苔まで扱っているじゃないか」だと。要は「国の発展のためだ。気の毒には思うが、問屋の面倒までは見切れない」というわけだ。東京も大森も葛西も随分努力したが、結局はダメだった。

では、次に神奈川に移ろう。

大師(川崎)にも、かつては随分多くの問屋があったものだ。大森の吉田兼次郎さんが大師の入札権も持って活躍していた。大師の海苔は、大森に比べて、やや品質は劣っていた。神奈川の海苔は、大師、生麦(鶴見)、金杉、磯子、本牧が主な産地だったが、横浜港の船の出入りが多くなるにつれて、今でいう公害が増えて来た。大型船から流れ出す油が海苔網に付くのだ。潮の流れ次第では、千葉の漁場まで流れて行く。油流出の被害には漁民も問屋も随分と泣かされたものだ。

大型船舶による油流失の公害は、とくに外国船によるものが目立った。それも、十二月という海苔採取の最盛期に多い。調べてみると、横浜に入港する外国船がクリスマス近くになると、本牧沖辺りに停泊して、重油タンクなどを清掃し、その廃油を平気で海に流すというのだからたまったものではない。コールタールのようになった廃油が海岸の海苔ヒビに流れ着く。

さて問題は、重油に汚染された海苔の処分だ。当時、本牧の生産者は、地元の問屋に出荷するよりも、東京の一部の問屋に多くを出荷していた。それを信州辺りの問屋、いわゆる旅師というのだが、その人たちに売ってしまうのだ。少しなら判らないが、中には一見して判るものもある。コールタールがブツブツと付いているからだ。何しろ人件費の安い頃のこと、店員たちがそのコールタールを一つ一つピンで取って、その部分にまともな海苔を唾か水で貼り付けると、うまい具合にピタッとくっついてしまう。一枚一枚見ては貼り付けるのだから大変な手間だ。鼻の良い人は臭いで廃油を嗅ぎ分ける。

最初のうち、そのようなことを知らなかった私は、とても色の黒い良い海苔なのに、バカに安いし、幾ら安く売っても文句をいわないし、指し値もない。そのうちに、これは曰く付きの海苔に違いないと思うようになった。その海苔をよくよく見ると、所々に貼ったような形跡が見える。その海苔を売りに来た人に聞くと、その人は「宮永さん、良く判ったね。実はかくかくしかじかだ」といった。ところで、コールタールが一〇〇%取れているとは思えないのに、そうした海苔にどういうわけか苦情は全く来なかった。もっとも、そうした海苔は主に大阪の場末の寿司屋に売られていたから、太巻きにして中に具を入れてしまえば、少しくらいコールタールの臭いがしても判らなかったのだろう。とにかく、そのような海苔は、安いので喜んで買ってくれたようだった。

青堀や富津あたりにもコールタールが流れ着いて、海苔にくっ付いたが、あの辺の海苔は色がさめてくると、コールタールの黒いのがはっきり出てしまう。ところが、本牧のは海苔が黒い盛りだから、切り貼りして火入れすれば臭いは消えてしまうのだった。

ここでちょっと話を大森に戻そう。昭和初期までの大森の海苔問屋には、二つのパターンがあった。一つは常山(じょうやま)という、今でいう系列の生産者を持った問屋で、先にも話が出た仲田屋、三忠、島田、綱忠、三本木、長門屋、朝庄といった問屋だった。この人たちは、自店の系列の生産者から持ち込まれる海苔を主として扱う店だ。

もう一つは、生産者から持ち込まれる海苔を仕切る、いわゆる仕切り専門問屋だ。このタイプの問屋の代表的な店は、木下、吉田、ヤマ福といったところで、島田さんは前者、後者を兼ねていた。

仕切り問屋は、夕方になると、文字通り門前市をなす繁盛ぷりで、大森だけでなく、羽田、糀谷、大師方面からも大量の荷物が集まったものだ。ところが、昭和七、八年になると、浜の生産者の家で個別に入札が行われるようになった。こうなると、常山(じょうやま) を持つ問屋も仕切り問屋も、この入札に参加することにならざるを得ない。もっとも、入札に参加出来る問屋は限定されてはいたが……。今の指定商のようなものだ。

しかし、ここで問題が起こった。今までは常山(じょうやま)の連中は、自分の系列下の生産者の海苔は確実に手に入ったが、今度は、入札の札値さえ良ければ、常山(じょうやま)の海苔もよそに売られてしまう。これは確かに大変革だった。

もう一つ思い出したのは、大森の味付海苔のことだ。大正の末期に、大森の田新商店が味付海苔を開発し、角缶に詰めて大阪に出荷した。今でこそ大阪は味付海苔の中心地だが、当時は全く無かった。平長にも加藤徳にもその味付海苔が入荷したが、とにかく高級品扱いで、南の宗右衛門町か、北の新地の高級料亭にしか売れなかった。それから間もなく吉田商店も味付の製造を始め、平長にも送って来た。何しろ品物は良い、味も良いが、値段が高い。とても一般の家庭で買える代物ではない。専ら高級の料理屋さん向けだった。私も平長の丁稚(でっち)時代に、味付海苔を道頓堀界隈の料亭に届けに行ったものだ。

もちろん当時、山本海苔でも山形屋でも味付は作っていたが、両店とも自分のところの小売用だから卸はしない。専ら田新や吉田さんの味付海苔が流通していた。その後、味付海苔は、大阪が本場のようになってしまったが、今いったように、起源は大正末期、大森製の缶入りなのだ。とにかく美味しかった。高級品だから、われわれ丁稚(でっち)には食べさせてくれなかった。まあ、大正末期の味付海苔は、今なら差し詰め和風高級グルメといったところだった。