海苔に命を懸けた男の一代記

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東京湾の戦前・戦後

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東京湾の戦前・戦後

次に東京に話題を移そう。湾内のことは今まで随分話したが、漏れたところを補足しておこう。まず、千葉の最盛期の思い出だが、それは東京の漁場がなくなった時点からではないだろうか。昭和三十七、八年のことだ。もちろん、その頃すでに千葉もぽつぽつ埋め立てが始まってはいたが……。五井、木更津、富津、金田地区が盛んに採れていた時代が最盛期といえるのではないだろうか。

千葉といえば、何といっても思い出すのは浦安だ。あそこで採れる頭(かしら=極上もの)は、みんなが先を争うようにして私の店に持ってきた。そのほとんど全部を山本さんに納めたが、千葉の海苔といえば、何といっても浦安が飛び切り良かった。とくに葛西がなくなってからはね。守屋、伊藤、北沢、天笠といった主だった産地問屋は、うち専門に随分上物を運んでくれたものだ。だから、うちの店先はこれらの上物が山をなしたものだ。場違い物をやらなくても上物だけで十分だった。

ただ、仕分けが大変だった。生産者が採ったままで札紙が入っただけの、検査もしていない海苔だから、いくら上物ばかりで値頃は同じだとはいっても、一千枚口、二千枚口それぞれ品物が違い、甲乙がある。

それを克明に仕分けして、山本さんに「これは上焼きに向く」「これは普通の焼き海苔用」「これは味付けに」「これは普通の小売り用」「これは帯掛けに」というように、ちゃんと用途別に揃えて納入する。店先に山積みされた海苔を全部仕分けして印を付け符牒の値札を付けるわけだ。それをまた同じように山本さんでももう一度再仕分けするのだ。商売とはいえ大変な手間だった。それが毎日の仕事だ。千葉の生産者が朝早く採った海苔を干し、晩に産地問屋が仕切って、直ぐにトラックに積み込んで朝、うちの店に着く。まさに新鮮な海苔だ。

さて、山本さんに納めた海苔は、再仕分けでチェックされ、これは高いなどといって返品されて来るものもある。とにかく伝票だけでも大変な量だ。店の前には、海苔箱が山のように積み上げてあるものだから傍目には物凄く景気良く見える。近所では「海苔屋って景気いいんだなあ」というように羨ましそうに眺めている。しかし、空いた箱は通い箱だから直ぐに返さなければならない。これも一仕事だった。段ボールに切り替わったのは四十年代の後半、まあ、五十年頃からだった。大変な合理化、省力化だったと思う。以前は缶詰もビールもみんな木箱だった。若い衆もみんな木箱を担ぐのを嫌がった。肩が切れてしまうからだ。これも時代の大きな流れだと思う。

箱といえば、東京だけは平箱だったがあれは百年以上も続いたものだろう。何しろ明治以前から平箱だったというから……。その頃、千葉でも浦安でも、生産者が小さい木箱を作って、それに海苔を詰め、舟で運んで来たものだ。印籠箱を小さくしたような重ね箱式のもので、一千枚くらいは入ったろうか。とにかく当時は、新鮮な海苔を売ったものだ。朝採った海苔が翌朝早くには東京の問屋の店先に着くのだから……。

箱の話のついでだが、火入れした海苔は印籠箱に入れるが、それが静岡で出来たのは昭和五年のことだ。それまでは百斤櫃(ひつ)といって、ブリキ製の箱だった。蓋をして、目張り紙というもので目張りをした。ガムテープなどという便利なものなど無い時代だから、丈夫な和紙を使った。その目張り紙は、まだうちの店に残っている。埼玉県の紙の産地・小川町の紙が良くて、目張り紙と紐紙は小川町の紙を使った。それと石州(石見の国、今の島根県)の紙も良かった。山本さんでは、石州の紙しか使わなかったが、石州の紙も丈夫だった。石州の紙は、丈夫なので文庫紙はもちろん、通い帳も通い帳を綴じるこよりも石州の紙で作った。使い終わった紙は、今度は壊れた平箱の修繕用に使ったので、捨てるところは無かった。

さて、千葉の話に戻ろう。千葉の漁場華やかなりし頃の話だ。漁期になると、毎年、作柄を調べに舟で五井から富津まで行くのだが、それは見事な海苔漁場だった。当時の千葉は文字通り全国最大の漁場だった。そして値も良かった。漁民にとっては、採れるそばからおカネになるのは海苔くらいなものだ。魚はそうはいかない。とにかく海苔の支払いは全てキャッシュだった。そうにでもしないと、海苔を持って来ないのだ。キャッシュならまだしも、カネに困っている問屋は、さきガネをくれという。つまり、前借りだ。当時の問屋は、うちだけでなくすべてキャッシュだった。だから、支払いの良くない問屋には荷物が入らない。とにかく入札制度になるまではオールキャッシュだった。そして、一番高値で売れた産地問屋はそれを自慢にしていたものだ。

その頃、山本さん、あるいは三越で売るような上物は、千葉以外では採れなかった。東京ものが無くなってしまった以上、千葉しか無いのだから、上物なら何でも持って来いというわけだ。誰かが上物欲しさに千葉に買いに行っても、私には直ぐに判ってしまう。それだけうちへ来る分が減るし、第一うちへ来るような海苔を、よそで売っていればすぐに判ってしまうからだ。まあ、九州や瀬戸内の漁場が良くなった、たくさん採れるようになったといっても、やはり東京や千葉の漁場が失われてしまったことは寂しい。とくに、五井の養老川の河口などは実に良い海苔が採れた。一番美味しかったと思う。

さて、漁場を失った代わりに、巨額の補償金を手にした漁民のことだが、私は或る信託銀行に依頼され、補償金を信託にするよう勧めてくれと頼まれ、その説明に行ったことがある。しかし、いくら信託というものを説明しても判ってくれない。結局、補償金で家を立て直したのは良い方で、ギャンブルなどですってしまった人が多かったようだ。何しろ海苔の代金でも、小切手は嫌だ、海苔箱に現金を一杯に詰めてくれ、という人たちだったから、信託どころの話ではなかったのかも知れない。海苔漁場が無くなったって、青柳などの貝ぐらい採れるさ、といった具合だったのだ。私は、補償金の全部とはいわないが、せめて三分の一くらいは信託にしておきなさい、と口を酸っぱくして勧めたのだが、聞き入れてくれた漁民はほんの僅かだった。

次に、品川、大森、神奈川の話をしよう。

品川、お台場辺りで海苔が取れ、駿河屋さん、藤常さん、杉本さんらが盛んにやっておられた頃のことだが、お台場の海苔は実に美味しかった。本当に良い海苔だった。葛西や深川より上だったのではないか。深川は、山本さんがとても大事にしていたし、東雲辺りの海苔も山本さんが放さないほどだった。お台場もそれらに匹敵するほど品質の良い海苔だった。口に入れると自然に溶けていく。あれが本当の浅草海苔ではなかっただろうか。

同じ大森でも、品川寄りから糀谷の方へ行くと、ちょっと落ちる。そして、羽田へ行くと、もう一段落ちる。歩いても幾らもかからない距離なのに不思議なものだ。やはり、潮のせいだろうか。大森でも、精々浜端くらいまでは良かったが、小さい川を隔てて糀谷に入ると、もう落ちるのだ。糀谷の先の羽田に行くと、また味が違う。浜続きなのに微妙なものだとつくづく思ったものだ。葛西や深川の海苔と、お台場、品川、大森の海苔の違いを見て、隅田川の水と多摩川の水とどう違うのかと思ったが、専門家ではないからとんと判らなかった。

品川と糀谷、歩いてもひと跨ぎ、気温も水温も変わりがないのだから、やはり潮の関係以外には考えられない。さらに川崎に行って大師の海苔、これが全く同じ顔をしているのにグンと安いのだ。これも不思議だった。ひと頃品質の良かった砂町の海苔がその後落ちたのも、荒川放水路が出来たせいではないかと思う。やはり水のせいだ。それに、当時はヒビ建てオンリーだったから、どうしても自然の影響をダイレクトに受けざるを得なかったのだ。何しろ、支柱の研究が始まったのは昭和八年のことだから……。それまでは海苔養殖技術も資材も幼稚なものだった。