海苔に命を懸けた男の一代記

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“切り”撤廃闘争に勝つ

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“切り”撤廃闘争に勝つ

その頃の平中は場違いの朝鮮も扱っていたけれど、出張所を十一か所も持った千葉産がどんどん多くなっていった。そして、扱い枚数はもう日本一になっていた。当時の上総ものは、上物で一帖十二~十三銭、二十銭なんていう海苔はほとんどなかった。そして、裾物が三、四銭。今の人にはピンとこないだろう。だって昭和七、八年といえば、山本海苔でもせいぜい頭 (かしら)が三十五銭か四十銭売りで、五十銭などというのは滅多になかった頃だ。山本さんが売っているのは、大森と葛西と深川ものだった。東雲の海苔というのがとても美味しくて、あれが五十銭だったかな。しかし僅かだった。

大森の問屋連中は皆、山本へ運んでいた。町半さんも大八車でね。山本さんは気に入らないと、一方的に値切ってしまう。それで嫌なら持って帰れ、というわけだ。産地問屋というのはあまり儲けはなかったと思う。

さて、それからが面白いのだが、前にもいった問屋の六分切り。あれの撤廃運動を起こしたのだ。買値の六分を切り捨て、そのうちの三分を仲買いに返すというしきたりだ。しかも、問屋組合にも入れてくれない。もう、癪にさわって仕方がないので、“切り”撤廃運動を始めたわけだ。

平中も、もちろん“切り”をやっていたのだが、だんだんと戦時色が強まってきて、生産が少なくなってきた。そこで人気取りに、平中は“切り”を離して正銭(しょうせん)にして荷物を集める方針を打ち出した。昭和九年のことだ。問屋はそんなことをやられては困る、とんでもないことだという。私は、このご時世に困るも何もないじゃないか、というわけで東京湾内海苔問屋連合会と喧嘩が始まった。

正銭(しょうせん)になって、平中は百円のものを百円で買ってくれるというので、また人気が上がった。そして、間もなく千葉の問屋も正銭に追随した。百円の品物を売って、片方は百円払ってくれるのに、片方は九十四円しかくれない。これじゃ勝負は決まっている。しかし、これにあくまで反対したのが東京の大手十一社で組織されていた問屋組合だ。山本さんは穏やかだったのだが、その他の大塚さん、葛浦さんや井上さんなどは強硬で、「宮永の奴、怪しからん」というわけだ。

しかし、時代は進歩しており、“切り”というような古い商習慣が通用しなくなっていたのも事実だった。それでも一年半は喧嘩が続いた。やっと手打ち式をやったのが昭和十一年のことだから……。

とにかくその間、平中と宮永に対する風当たりは凄かった。日本中が平中除名に大合唱だ。問屋組合では、平中と取引した仲買は仲買組合から除名するという。現に、平中との取引が多かった山谷の長谷川は下谷組合から除名されてしまった。問屋組合は仲買組合にまで口を出して除名させたのだから、如何に怒りが激しかったかが分かる。問屋の言い分は、今まで問屋はお前たち仲買いの面倒を見てきた、それなのに平中と取引するとは何事だというわけだ。そういわれれば、仲買いの立場は弱いから、問屋のいうがままに除名せざるを得なかった。

それは、長年続いた六分の“切り”の利権は莫大なものだったから。それを潰されるというのだから、問屋にとっては大変なショックだ。“切り”というのは、銀匁(ぎんもんめ)時代の名残なのだ。銀匁で払う時代に“切り”を切って売ったのだ。金と銀との間には格差があったから、銀匁商売の時は六分を切ったのではないか。 “切り”の商慣習は海苔だけでなく乾物にもあって、海苔よりももっと凄かったらしい。千切も高野豆腐の商いにも“切り”の風習があった。

千切などはとくにひどかった。千切は風に当たると乾いて軽くなってしまう、十貫が九貫になってしまうのだから、一割や一割五分は平気で切ったものだ。まさか、水をかけて売るわけにもいかないから……。

古い商習慣である“切り”のシステムについてもう少し説明をしてみよう。昭和初期まで残っていた“切り”は、海苔だけでなく、乾物にも行われていたことは前にも述べたが、大阪の乾物問屋は全部といっていいほど、五分の“切り”をやっていた。百円のものを仕入れても九十五円しか払わないのだ。つまり、“切り”は問屋の儲けであり、権限みたいなものだったのだろう。そのようなことをする代わりにといっては何だが、問屋は随分カネを貸していた。山本さんなどは実によく面倒を見ていたものだ。

葛西や浦安の生産者などは、山本さんから先ガネと称してヒビ代まで借りていって返さないのだ。通い帖に金何円貸しと書いてある。それは海苔を持っていった時に精算したり、相殺したりするのだが、とにかく漁民はカネが入ると皆、呑んでしまう。「舟板一枚、海の底」などといっていた時代だから。生産者は皆、問屋におんぶにだっこという状態だった。昔の小作人と同じだ。漁業権まで何もかも山本さんに入れてしまうのだ。

さて、私の“切り”撤廃闘争は一年半も続いたが、そのうちに「いつまでもこんなことをしていたら、お互いに宜しくないから仲良くやりましょう」ということになった。それで手打ち式だ。手打ち式が済んで、希望者があれば問屋組合にも入れてやるということになった。ところが、面白いことをいうのだ。お披露目金を二千円出せだと。まるで芸者と同じではないか。そこで私は「じゃあ、問屋組合には財産がどれくらいあるんですか」と聞いてやった。そしたら「平中と喧嘩しているうちに借金ばかりになってしまった」というのだ。私は「おかしいじゃないか。どこの組合だって会社だって、出資する人には財産がこれこれあると説明するのが当然じゃないか」といってやった。幹部は「加入金じゃない。平中は特別にお披露目金だ」というのだ。失礼な話ではないか。組合には八万円の借金があって、山本さんが立て替えているという。

そんなやりとりをした挙げ句、結局はお披露目金を払って問屋組合に加入した。平中に続いて加入したのが花岡さん、浜種さん(今のマルタさん)、それに丸二さんだった。お披露目金はウチだけで、ほかは加入金だったらしい。昭和十一年のことだ。