海苔に命を懸けた男の一代記

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千葉に出張所網を展開

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千葉に出張所網を展開

そんなことはおかしいではないかということで、私は朝鮮から帰ると間もなく運動を始めた。千葉県だって問屋組合が頑張っていて、なかなか思うように買えない。東京湾内海苔問屋組合連合会というのがあり、千葉、葛西、大森、横浜の問屋連中が加盟していた。このご時世に、旧態依然とした商習慣は怪しからん、と思い、昭和六年に先ず船橋の篠田さんの名義を借りて五井に平中商店の出張所を出した。さらに、木更津にも地元問屋の名義を借りて出張所を作った。ところが、新しい店が出来たというので、生産者がどんどん海苔を売りに来てくれる。

これに気をよくした私は、じゃあ、徹底的にやってやろうという気になって、翌七年から大々的に出張所の展開を始めた。五井、木更津に続いて、姉崎、楢葉、桜井、坂田、青堀といった具合に一斉に拠点を作ってしまった。もちろん、全ての出張所に平中の仕切り番頭を配置した。その頃、信州の半期の番頭で長年、東京で海苔の商いをしているから仕切りの出来る人は大勢いた。私は、半期の優秀な人たちを集めて各出張所に配置した。

生産者は旧来の問屋との取引に飽きていたのだ。いつも抑えられていたから…… 。そこに新規が出てきたものだから刺激になった。頭の進んだ漁業会ほど歓迎してくれた。昔は今と違って、その日に採れた海苔は、その日の夜に売るのだから、まあ、宵越しの海苔は持たないというわけだ。千枚なら千枚出来ると、問屋へ持って来る。どうこ(ブリキ缶)や木箱を背負ったり、自転車に積んでね。大きい生産者は二箱くらい持って来た。まあ、平均千枚か、千二百枚くらい採るのだ。

青堀の漁業会を借りていた出張所などは凄かった。生産者がずらっと列を作って「早くやれやれ」と叫ぶ。仕切りの番頭には権限を持たせてあったから、それは手際よく仕切ったものだ。

とにかく、平中の千葉出張所は、どこもすごい繁盛だった。私は仕切り番頭に権限を持たせていたから、仕切りをスピーディにやって生産者に喜ばれた。「この千枚はいくら」「この五百枚はいくら」というように即決だ。平箱一つに一千六百枚入る。二百枚の海苔が八柵入るから。生産者は一軒で大抵二箱持ってくる。それを仕分けして、これが百円、こっちが八十円というように仕切りして全部現金で払った。

平中は現金で払うというものだから、すごい人気だった。その頃は全部現金というところは少なくなってしまっていた。その代わりに地元の問屋連中には怒られた。怒ったといっても、当時の千葉の問屋は半数以上が東京に買ってもらっていて力がなかった。だから、ただ怒られるだけで済んだのだ。

千葉の生産者は朝、船を仕立てて海苔を東京へ運ぶ。船着き場は日本橋、今の公衆トイレのあるところ、それに高橋(たかばし)、宝町のそばの弾正橋、この三か所だった。そこに問屋組合の荷受け場があり、船の都合でこの三か所のどこかに着いた。浦安の海苔も日本橋に着いた。

千葉の仕切り問屋は、東京の神田、下谷の荷受問屋の大どころへ売るのだが、そこに平中が殴り込んだわけだ。もう、その頃になると平中は千葉海苔の扱いが多くなったので、朝鮮海苔はあまり扱う必要がなくなってきた。とにかく、千葉に十一か所も出張所を出したのだから……。これらのところで仕切った海苔を、うちは船でなくトラックで運んだ。夜、富津を皮切りに、最後は五井まで順番に出張所を回って海苔を積み込む。毎日トラック一台か二台になる量をね。

私は、それを朝早くから東京の店で待ち受けて朝五時から売り出したが、もう店にはいっぱいの仲買いが詰めかけている。七時にはもう売り切ってしまうほどだった。東京の仲買いは千葉の問屋にも買いに行けるのだが、カネが忙しい。平中はカネが回るからいいというわけだ。というのは、当時は汐合い勘定といって、月二潮ごとに決済する風習があった。つまり、月に二回しか決済されない。それでも払い切れない問屋があって、勘定が溜まってしまう。ところが、平中はキャッシュで買った上にカネも貸してやろうというのだから、人気が出るわけだ。

その頃、初めて手形決済が始まった。十四日と晦日の月二回、必ず集金に行くのだが、きれいに払ってくれるところばかりではない。

海苔の手形決済の起こりには、こんな経緯がある。月二回、十四日と晦日に集金に行くのだが、きれいに払ってくれるところばかりではない。仮に、千円の請求書を送っておいた店に集金に行ったとしよう。そこのおやじは「千円は無理だ。清ちゃん、半分くらいにしてくれないか」という。私は「よし、その代わり残り半分は手形を書けよ」といった。五百円は現金でもらって、五百円は六十日の手形を書かせた。

千葉の問屋などは、取引は毎日、決済は汐合い勘定で月二回だから、どうしても勘定が溜まってしまう。とにかく、海苔はたくさん扱うのだけれど、カネ払いの悪い店がある。そういう連中は皆、ウチに買いに来た。六十日手形でもいいのだから。海苔屋で手形決済を始めたのは平中が始まりだ。昭和七年のことだ。

それまでは現金以外は手形でなくて通い帳、つまり貸し売りなのだが、どうしても溜めてしまう。私は大阪時代に、大阪の乾物問屋が手形商いをしていることを知っていたので、東京の海苔商いにも手形を導入したというわけだ。支払いを溜めるのはよくないから、六十日貸してあげようというのが動機だった。これも店の人気のもとになったが、ほかの問屋は困ってしまったらしい。「平中は怪しからん。余計なことを始めて」というわけだ。