海苔に命を懸けた男の一代記
わが海苔人生
伊勢湾の海苔物語
ここで、伊勢湾の海苔について話しておこう。東大淀にしても村松にしても、中・南勢の海苔は、初めは色が良いのだが、味が落ちるのが早い。今一色もそうだったが、台風後はそれが見違えるように良くなった。生産者の努力ももちろんあったが、堤防の建設による潮流の変化が原因ではないかと思う。堤防建設によって旧来の漁場が失われた反面、在来の漁場で採れる海苔の品質が良くなったり、新規漁場が開拓されたり、台風の影響は明暗を分けたといって良い。南ほど良くなったようだ。とにかく潮の流れが変わり、海底の様子も一変したのではないだろうか。
伊勢湾台風前の海苔は、お盆までに売ってしまわないと、昧が変わって大損するといわれていたものだ。われわれにそういう先入観があったのかも知れないが……。そういう点は随分改良されて来たが、長く変質しないように一層研究して欲しいと思う。色はなかなか良いのに、値が安いのは、この辺に理由があると思う。惜しいことだ。しかし、南勢の海苔は、香川県産とともに、新潟などの米菓屋さんに人気がある。安いのに色があって、米菓には打ってつけだからだ。南勢の海苔は良いお得意さんを持っていると思う。見てくれが良くて価格が安い。これも一つの商品特徴といえるのではないだろうか。商売上の妙味もあるし、今のままで良いと思う。
南勢の海苔のついでに、青の話をしよう。宮川の島田といって、昔から有名な特産品だった。暮になると餅に入れる、薯蕷(とろろ)に入れる、といった用途があって、青海苔を束ねた島田の青は、品質が良くて珍重されたものだ。和菓子やおかきにも随分使われたが、やはり一番多かったのは餅に入れる用途だった。今はその島田の青も採れない。上流にダムが出来て、その排水で海流が変わってしまったからだ。青は今、韓国から入っている。
島田の青は本当の青海苔で、青板とは違う。青には青バラ、青板、青サとあり、原藻の青バラをすいたのが青板で、主に佃煮に使われる。青サはお好み焼などに用いられ、青バラや青板とは違う。昨今は、ひと頃のように青板を使わなくなったようだ。青バラの方が加工しないだけ安くつくからだろう。南勢以外の青の産地は、三河の吉田地区くらいなものだろう。みんな黒を採るようになって、青の生産量は少なくなってしまった。南勢でも、志摩半島の島嶼部で採っているくらいなものだ。昔は、中勢の松崎や六軒あたりでも盛んに採っていたものだが……。
面白い話がある。昔、海苔佃煮「江戸の華」のメーカー柳屋から、是非取引したいという話が舞い込んできた。昭和八年頃だったと思う。「青が不作で困っている。朝鮮海苔を青と混ぜて使いたい」というのだ。私はその時、朝鮮の京尚南道のハトン(河東)地区産の白っぽい海苔をたくさん買って持て余し、それをヒネにしなければならないかと思案していた矢先のことだった。私は、渡りに舟、とばかりに「とにかく、この海苔を使ってみてくれないか。良く溶けるし値も安いから佃煮には持って来いだ」と柳屋の番頭さんにいった。 二箱だけ渡し「勘定は要らないから、とにかく佃煮に使ってみてくれ」といった。
一週間ほどすると、その番頭さんが来て「清ちゃん、例の海苔まだある?少しでは困るんだけれど」という。私は「シメた」と思い、即座に「五、六百箱ならあります」と答えた。事実、私は八千枚入りの白っ葉を五、六百箱も持っていて、その倉庫料にも音を上げていたところだった。
番頭さんは「取り敢えず百箱ほどくれ。幾らだ?」という。私はさんざん値段の駆け引きをした挙げ句、そこそこの値段で話し合いがついた。間もなく「もう二百箱くれ」といったような按配で、とうとう持て余しの五、六百箱全部を売り尽くしてしまった。青海苔と白っ葉の朝鮮海苔をどのような割り合いで混ぜたのかは知らないが、とにかくうまく行ったのだろう。お蔭で厄介ものは奇麗に片付いてしまった。
さて、また海苔漁場の話に戻ろう。和歌山県だが、和歌浦の漁場は埋め立てや海水汚染のために昭和初年にはすっかり衰退してしまった。