海苔に命を懸けた男の一代記

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「わが海苔人生」連載を終わって

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「わが海苔人生」連載を終わって

(この一文は連載終了の次号に掲載されたものである)

食品新聞社 中野 宏記

宮永清氏の「わが海苔人生」は連載九十回をもって完結した。平成元年八月一日に第一回が掲載されてから約一年二か月に及んだ。

七十年近い長い間、海苔業界一筋に活躍して来た氏の赤裸々な体験談は、読者に大反響を呼んだ。私も多くの読者から「あれは面白い」「あのようなことがあったとは知らなかった」というような感想をうかがった。

私は、週に一、二回、宮永さんのお店で毎回一、二時間ほどインタビューし、それを纏めたものだが、長い対談の間にはオフレコもあったが、終始ありのままをあけすけに語って下さった。とくに韓国海苔のくだりは、氏の独壇場だっただけに一入熱がこもっていた。私が宮永さんの知遇を得たのが昭和二十六年早々のことで、まさに韓国海苔輸入問題の最盛期だったから、氏の海苔人生の半分以上を第三者の立場から拝見してきたことになる。

この文中でご本人も話されているように、壮年時代の氏は文字通り向かうところ敵無しの気概と負けん気に満ち溢れていた。それが時には倣慢不遜という誤解も受けたようだ。しかし、東京海苔問屋協組理事長、全国海苔問屋連合会会長、さらには韓国海苔輸入協組理事長等々、業界の頂点に立ち、氏もまた年輪を刻むにつれて、氏の人格は磨かれスケールを増していった。斗酒なお辞さずの大酒豪だった氏も温厚な愛酒家に変わり、まさに好々爺の雰囲気を漂わせるようになった。

一年余のインタビューを通じて、何よりも驚かされたことは氏の抜群の記憶力だった。「私はメモなど一切とったことがない。頭の中にメモしてあるんだ」という通り、何十年前の年号、人名、地名などが淀みなく出てくるのに感服したり、驚嘆したりしたものだ。

さて、その宮永さん、社長業をご子息の裕之さんに譲り、悠々自適かと思いきや、インタビューの時間を割いて頂くのも難儀なほどのご多忙さだ。地元町内会連合会長など地域の要職を数多く務め、業界の寄り合いより、この方が忙しいとこぼしながらも地域への奉仕に努めておられる。

とにかく、年齢を聊かも感じさせないタフな長老ではある。この分では二十一世紀も楽に迎えられそうな氏に煽られ通しのインタビューの一年だった。どうか、これからも一層お元気で、貴重な経験を生かしつつ、天下のご意見番としてのお役目を果たして頂きたいものだ。

あと書き

さきの一文にも書いた通り、二十一世紀もお迎えになれそうな宮永さんではあったが、そのお元気なお身体も病魔には勝てず、平成七年十一月十四日、八十五歳の生涯を閉じられた。その二か月ほど前、ご入院先の国立国際医療センターにお見舞いに伺った時も、とてもお元気だっただけに、訃報を耳にした時は、我が耳を疑ったほどだった。今回、宮永さんの一周忌の追悼の集いに、「わが海苔人生」を記念にお配りしたい、という裕之氏からのお話を伺い、インタビュー当時の宮永さんの面影を目に浮かべながら再編集した次第である。ここにあらためて心からご冥福をお祈りしたい。(食品新聞社・中野 宏記)

☆おことわり  文中、先代、先々代などの表現および職名などは、いずれもインタビュー当時のものです。また、朝鮮、韓国の表現は、戦前を朝鮮、戦後を韓国としました。ご了承下さい。