海苔に命を懸けた男の一代記

わが海苔人生

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知多海苔の今昔

知多へ行くと、様子はガラッと変わる。とくに知多半島の西岸は、良い漁場が続いていた。木曽、長良、揖斐の三大河川が流れ込んでおり、その水が名古屋港の方へグルッと回流する。その潮流が海苔生産に実に好都合なのだ。だから昔から良い海苔が採れたのだ。昭和三十四年の伊勢湾台風の後、大防潮堤が出来るまでは、台風が来る度に湾の奥まですっかり水が変わってしまう程に水が出るから、栄養塩が実に豊富だったのだ。今でも好漁場に変わりはないけれど……。

知多といえば小浅商事だが、昔は、森田という雑貨屋さんが海苔に非常に力を入れていた。その後、小浅の先代の白羽文三郎氏が負けずに海苔をやるようになって知多の海苔は急速に発展していった。白羽さんは痛快なおやじさんで、酒豪でもあった。入札をやっても、自ら胴元をやり、コップ酒をあおりながら「もっと良い値で買え!」とハッパをかけるのだ。白羽さんは、生産者の育成にも実に努力した。とにかく大人物だった。

とはいうものの、戦前の知多はまだ後進漁場で、それが急速に伸びたのはやはり戦後のことだ。他の漁場が埋め立てなどで次々にダメになっていったので、余計に知多の躍進が目立ったのかも知れない。もともと潮流には恵まれていて、海苔の質は良かった。とくに今の東海製鉄の工場建設で埋め立てられた辺りは、とくに良い漁場だった。戦後、横須賀辺りも良い海苔が採れるようになったが、小浅の努力とともに、地元漁業会の優れた指導も忘れてはならない。各漁協が競争で増産と品質の向上に励んだ。指導者が良かったのだと思う。小浅の白羽さんも、統制解除後に長らく県会議員と議長を勤め、地方政治の面からも海苔産業の発展に努力した。その力も大きかったと思う。

忘れもしないのだが、戦後間もない頃の暮れに海苔が足りなくなったことがある。私は小浅に電話して「現金で払うから、直ぐに海苔を持って来てくれ」と頼んだ。小浅はトラック何台にも海苔を積み、徹夜で東海道を飛ばして翌朝私の店に届けてくれた。息子さんたちもトラックに便乗してね。

まあ、知多から西、伊勢湾一帯には海苔漁場が広がっていた。熱田、鍋田など湾奥も漁場だった。それが伊勢湾台風後の防潮堤建設ですっかり失われてしまった。人命には代えられないが、もったいない気がする。それは良い海苔が採れていたもの。

水谷喜造さんが愛知県漁連にいて、入札の胴元をやっていた頃が熱田、鍋田付近の海苔の最盛期だった。何しろ知多半島から名古屋にかけて伊勢湾沿いに三重までずっと優秀な海苔漁場が続いていたのだから見事なものだった。弥富から桑名まで優秀な海苔漁場が続いていたのだが、それらは全て埋め立てられて、僅かに桑名が残っているくらいなものだ。伊勢湾台風は中部地区の海苔生産を根本から変えてしまったといって良いだろう。先にもいったように、あれだけ豊富な三大河川の水が伊勢湾を回流しなくなってしまった影響は大きい。比較的恵まれている知多にしても、潮流の変化はあるだろうし、第一、中京地区一帯の工業発展で埋め立てが進み、知多半島の南の方に漁場が移りつつあるし、段々に沖出しなって海苔の味にも影響は避けられまい。