海苔に命を懸けた男の一代記

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九州海苔の歴史と思い出

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九州海苔の歴史と思い出

まあ、苦言はこれ位にして、産地別の思い出話に移ろう。何といっても、戦後急成長した九州産地から取り上げよう。

九州における海苔生産の歴史は、とても古い。私の聞いたところでは、明治の初年、大牟田付近で始まったそうで、明治の中頃には相当盛んに作られるようになったと聞いている。もちろんヒビ建てで、採れた海苔は専ら地元で消費されていた。それが広く市販されるようになったのは、明治の終わりから大正になってからだ。平中の中野のお爺さんに聞いた面白い話がある。大正三年に桜島が大噴火した時のことだ。丁度その年、大牟田から八代あたりの海苔に、いわゆるハト糞が出てしまった。今でいう白腐れだ。その時、海苔屋は噴火をいいことにして「これ(つまりハト糞の白腐れ)は、噴火の灰が付いたのだ」といって売ってしまったというのだ。 今、考えれば、随分いい加減な話だが、その頃は生産者も問屋も、海苔の病害など知らなかった時代だから、白腐れを噴火の灰のせいにしてしまったのも無理ないような気もする。この海苔は、大阪や地方にも売られて結構儲けたという。九州海苔が大阪に出荷されるようになったのは、その頃からではないだろうか。

その頃の九州の問屋は、大牟田の人たちに熊本の松本佐一さん(今の浦島海苔)たちだったが、その他の人たちの中には、九州海苔では食っていけないといって朝鮮海苔に転進した人も多い。九州海苔にしても朝鮮海苔にしても、その頃からボツボツ大阪に出荷されるようになった。とはいうものの、輸送が不便だったので、量的には大したことはなかった。私の丁稚(でっち)時代には、山口あたりの海苔など目方の重い軽いで取引していた。何枚とは書いてあるけれど、計りにぶら下げてみて重さで判断する。フカフカな海苔は軽いからね。箱を開けてみると、ちゃんとそういうものが入っている。中を見なくても、持っただけで判るのだ。

前にも話したかも知れないが、当時は海苔箱が満足に無い。ゴールデンバットや朝日など煙草の空き箱を探して来て、その底に新聞紙をたくさん敷いて海苔を詰めていた。それを汽車に積んで運ぶのだ。大牟田だけは値が高いだけに、幾分ましな箱に入れたが、当時はまともな箱に入れるだけの価値がなかったのだろう。今、思うと、まさに隔世の感がある。

それも無理はないと思う。まだ、東京湾内産の海苔が本場物として幅を利かせていて、その他のものは全て場違い物といわれていた時代だから……。東京では、場違いということを事毎にいっていた。深川の柿沢さんが面白いことをいっていたことを思い出す。彼は「州という字のつく海苔を買ったらダメだよ。必ず損するから」という。「九州、三州、勢州(伊勢)、みんなそうだ」という。今のように、草目からして良くない上に、乾燥が十分でない。どういうわけか、お盆を過ぎる頃になると、決まって色が落ちて来て、いくら上手にホイロしてもダメ。お盆までは色がいいから、それまでに売ってしまわなければならない。九州は余計に早く変色した。大牟田を除いてはね。浅草海苔と同じタネだというのに、どうしてこうも違うのか。このへんが実に商売し難かった。九州海苔の先覚者といえば、やはり松本佐一さん兄弟、それに坂本三郎さんらで、それは一生懸命に九州海苔の発展に尽くされたものだ。

地元以外で九州海苔に関係が深い人といえば、山口の原田さん、大阪の藤井さん、中野さんで、これら九州に買いに行った人たちも随分熱心に指導していた。広島の国光さんも足繁く九州に通っていたものだ。この人たちも今日の九州海苔を育てた功労者だ。みんなで三つ四つのグループを作り九州海苔の買い付けをやった。まあ、談合といえば談合だが、みんなとても熱心だった。しかし、その頃は何といってもまだ九州海苔の販路は限られていたし、それに産地も大牟田、加布里(今の前原、つまり玄海)あたりが主で、その他はずっと後になって拓けた。大分もかなり後になって拓けたが、とにかくヒビ建ての時代だから、潮の干満と栄養塩の関係でどうしても色付きが悪かった。

ヒビは潮が引く時にサーッと倒れてしまう。そして潮が満ちてきてヒビが起き上がる時には底の砂を噛んできてしまう。その後もその解決策として葭簾(よしず)、つまり簾(すだれ)が採用されて、随分改良された。女竹(めたけ)から簾(すだれ)に改良されたのは昭和になってからのことだ。それでも今考えると幼稚なものだった。

それでも生産は次第に増えていって、主として大阪市場に送られていた。まあ、九州の生産は戦前のピークで二、三億枚がいいところではなかっただろうか。戦後、昭和二十五年の九州海苔(株)の設立趣意書にも二、三億枚の生産予想と書いてあるから、その程度ではなかったかと思う。九州海苔はやがて東にも販路を伸ばそうと、東京にも随分売り込みに来たが、扱ってもなかなか儲からない。東京湾がうんと不作の年は別だったが……。とにかく相変わらず変色が酷かった。私は乾燥のせいではなくて、やはり草目そのものが悪かったのではないかと思う。

次に九州海苔(株)が設立された経緯について触れてみよう。私が韓国海苔を盛んにやり出した頃、山口の原田保夫さんが「宮永さん、私は戦前から九州の海苔を一生懸命にやってきたが、生産も増えてきたので私だけではやり切れなくなった。どうしたら良いだろう」と相談に来た。昭和二十四年のことで、ちょうど鉱工品貿易公団による最後の国産海苔配分の年だった。原田さんは時代も変わったし、このへんで九州の海苔を一手に扱う会社を作ろうというのだ。原田さんは会社の設立趣意書も用意してやって来た。私も九州海苔の発展と育成には賛成なので話を聞くことにした。

相談を受けた私は「会社を作るには資本が要る。それに新会社のトップには誰をすえるのか?」と聞いた。すると、原田さんは「熊本の松本一男さんを社長にして、あのへんの生産者のボスも役員に入れる。そして、私は蔭の存在として実質的な経営をやる」という。「カネはどうするんだ」と聞くと「カネはない。四百万円の手形を書いてくれ。会社ができて出資金が集まったら必ず返す」という。生産者も含めた二十人ほどに出資してもらい、熊本県産の海苔を一手に集荷・販売するという目論見だった。

要は、二十人に株を持ってもらい、その人たちを入札指定商にするというわけだ。そして、やがては熊本だけではなく、佐賀も大牟田も一手に集荷・販売するという遠大な構想だ。結局、私は四百万円の手形を書いて上げた。出資予定者には大阪の池内(庄蔵)、田中(次松)、名古屋の尾河(治助)、三河の村上(忠七)さんら十人ほどの名前が書いてある。後日譚になるが、私が書いた手形四百万円のうち、間もなく返ってきたのは百万円だけ、残りは書き換えだった。

そのような経緯があって、九州海苔(株)は翌二十五年にスタートを切った。古賀清一さんが専務、つまり大番頭格で入り、後に社長になったが「とにかく一生懸命やって、用立ててくれたおカネは必ず返します」という。発足した九州海苔(株)は、熊本県漁連をも抱き込み、県漁連代行というお墨付きももらって、指定商による入札が始まった。しかし、中にはうるさい漁協があって、集荷した海苔の保証価格を設定しろという。最低入札価格を保証しろ、安く叩かれては大変だというわけだ。まあ、信用がなかったのだと思う。

そのうちに松本さんは温厚な人だから、こんな仕事はやっていられない、といって社長を辞任し、一時原田さんが後任社長になったが、間もなく古賀さんが社長に就任した。その頃は、まだ熊本県産だけだったが、二、三年すると大和の方へも手を伸ばすようになった。二十八年には、中島にも立派な集荷所を作ったりした。また、長崎にも進出したが、佐賀はほとんど手付かずだった。漁連から信頼されていなかったのではないか。いずれにしても、九州海苔(株)を作った原田さんの視点は良かったと思うが、経営が古賀さんの手に移ってからの十年間に、どうもおかしな方向へ行ってしまったようだ。古賀さんは、なかなかのやり手だったが、それだけに大風呂敷になってしまったのではなかろうか。

その一例に九州製函(株)の設立がある。海苔函を作る会社だ。そこまでは良いんだが、材料の木材を得るために山まで買い込んでしまった。九州中の海苔函を一手に供給するのだといってね。そちらの方に首を突っ込み過ぎてしまった。そのうちに製函の専門メーカーができてしまった。当時の漁連は函代を取っていたが、そういう製函専門メーカーは函代のリベートを出すようになった。片方は海苔屋の片手間の函屋だし、一方は専業だから競争に勝てっこない。そのようなことに手を広げていくうちに、だんだんと経営がおかしくなってきた。三十七年頃になると、私らはもう危いのではないかと思った。

そして、三十九年になってとうとう潰れてしまった。とにかく手を広げ過ぎたからだ。東京、大阪、福岡はもちろん、全国各地に支店は出すわ、不動産のようなことは始めるわ、それでも最初のうちは良かったが、だんだんにカネが忙しくなって手形を乱発するようになってしまった。一方、本業の海苔も儲かる時ばかりはない。函の方は、十万函も作るようになって、次第に重荷になってきたようだ。函などは専門業者に作らせて、それを買っていれば良かったのに、何もかも自分でやろうと思ったのがいけなかったのだと思う。倒産して、設立の時に私が用立てた四百万円は、百万円返っただけで、あとはパーにされてしまった。まさかこんなことになるとは思ってもいなかったが、まあ仕方がない。私よりもっと酷い目に合った人もいたのだから……。

私は、三十七年に九州海苔(株)の前途を見通して入札指定商をやめ、手を引いたからそれだけで済んだが、池内さんや原田さんは大変な損害を蒙ってしまった。その後始末と救済には随分骨を折ったものだ。だが皮肉なことに、九州海苔(株)が倒産した頃から九州の海苔業界は生販ともどんどん発展していった。

三十年代の終わり頃から、東京や千葉の海苔漁場が埋め立てられて、代わって脚光を浴びるようになったのが九州海苔というわけだ。白子さんが田中茂さんとタイアップしてサン海苔を設立する、佐賀の漁場が急速に発展する。九州の海苔業界が生販ともに目覚ましい発展を遂げたのはあの頃だ。今日の九州の姿を見るにつけ、隔世の感を禁じ得ないが、その歴史を振り返ってみると、様々な出来事やエピソードがある。九州海苔(株)の一件にしても、悪くばかりはいえないと思う。九州の海苔の発展の刺戟剤というか、捨て石というか、その功績も認める必要があると私は思う。まあ、功罪相半ばするといってもいいのではないか。生産者には迷惑をかけていないし……。