海苔に命を懸けた男の一代記

わが海苔人生

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各団体の長を務める

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各団体の長を務める

そうこうするうちに、三十九年だったか、九州海苔の破綻事故が起こり、連鎖反応で十何社かが倒産してしまった。これが戦後の海苔業界の一つの転機になったと思う。その頃、加工海苔業者も何もかも入れて韓国海苔輸入協議会なるものが結成され、小浅の白羽さんが会長になった。そして、長崎県漁連の丸亀秀雄さん(故人)が専務理事に就任して実務を担当した。

当時、すでに韓国海苔需給調整協議会という組織があり、これには問屋組合、全海苔漁連、それに商社も加入していた。全海苔に三%の生産奨励金を払うための組織だった。この協議会は三十四年に結成され、ずっと私が会長をやっていた。当時、私は全国問屋連合会、東京問屋組合、韓国海苔の一組、そして需給調整協議会と、いずれも会長を務めていた。

だから、亡くなった松葉町小善の小林君などは「宮永さんは怪しからん。海苔の団体の長(チョウ)は盲腸から脱腸までみんな取ってしまった」、などといっていた。さんざん業界のために骨折って、苦労しているのにそのようなことをいわれては合わない。

後から出来た輸入協議会の方だが、それまでの輸入実績者全てに割り当てるというものだから、なんと八百社以上にもなった。輸入商社もどんどん増えていって、最後には六十八社にもなってしまった。輸入量は零コンマ零何%のものにも輸入枠を与えた。一組でさえ二・三%くらいしか枠がもらえない。

韓国海苔のことはしばらくおいて、先にも触れた九州海苔の事故以来、九州の生産も販売もすっかり様変わりしてしまった。そして、これを契機に全漁連が次第に台頭してくる。三十七、八年頃までは九州海苔が有明海の販売権の過半を持っていたのだけれど、それが潰れたものだから一大異変だ。その頃設立されたサン海苔の田中茂さんや白子さんたちが手を結んで次第に力をつけてくるとともに、全漁連の海苔進出が活発になってきた。そして水産庁もだんだんと全漁連を立てるようになってきた。

韓国海苔の方も輸入業者、問屋業者ともに驚くほど増えてきてしまった。寄ってたかって韓国海苔というわけで、これでは妙味も何もあったものではない。私はボツボツ身の退き時、つまり隠居の時だと思った。ただ、九州海苔の一件で損害を被った人たちの尻拭いをしなければならない責任が残っている。詳しいことは差し障りがあるから省くが……。

九州の事故の背景にはいろいろある。大阪もだんだんと海苔商いがしづらくなってきたし、東京も三十七、八年になると、葛西、砂町など近場の漁業権放棄が行われるというように難しい問題が起こってきた。そんなわけで皆、九州に目を向け始めた。いずれにしても、九州の事故を収拾し、誰にも迷惑をかけないようにする義務が連合会会長としての私にはあると思い、東食などの協力を得て全力を尽くした。一つの企業を整理するということがいかに大変なことか、身をもって体験した。

結局、四十一年に韓国海苔需給調整協議会の方は常務理事に退き、一組の代表として会議だけは出席して、専ら九州事故の後始末に奔走した。三十年代後半から国内産の海苔が目に見えて増産されるようになり、この調子では韓国海苔の輸入も何時まで続くかと思われるようになった。国内が増産されると、一億枚の韓国海苔でさえ欲しくなくなるようになってしまった。

話は変わるが、未だに全漁連の中に韓国海苔輸入協会というのが残っている。もう輸入が行われなくなって十五年近くもなるというのに……。二組、三組は脱落してしまって、一組、生産者、加工連の三者で一応組織だけは残っている。もう解散しようという話はあるのだけれど……。

まず、需給調整協議会が姿を消し、次いで輸入問屋協議会が解散し、結局、輸入協会だけが残っている。年に一回、総会を開くのだが、やることは何もない。せいぜい、会費から各団体に宣伝費を出すくらいなものだ。

私は、この前も「韓国海苔輸入協会」の「韓国」の二字を削ったらどうかといった。一組は今年の総会でこれに賛成している。こうすれば中国であろうと、どこの国の海苔であろうと扱える。いずれはそういう時代が来る。中国の海苔などサンプルが来ているが、随分いい海苔がある。生産機械も送っているし……。

話は横道に外れたが、韓国海苔が一枚も入らなくなったのは四十八年からだ。もう十七年になる。早いものだ。

わたしのライフワークともいうべき韓国海苔輸入も、昭和四十八年を最後にピリオドを打った。最大の理由は、国内産の海苔が急速に増産されるようになったことだが、それと並行して、輸入実績者が激増し、商売の妙味がすっかり失われてしまったこと、さらに韓国側が強気になって、カーゴレシート方式はいけないの、入札は韓国でやるから見付けに来いだのというようになったことも原因だ。

最後には、全漁連の海苔を買っているものは全て韓国海苔輸入の輸入資格者で、全漁連の入札実績によって配分するというようなことになってしまった。一千人近くの人たちで僅か一億枚の韓国海苔を分けたところで、妙味も面白昧もあったものではない。最後には、一本でいい、半本でもいい、ということになってしまって、それで韓国海苔も終いということになった。終わりの方になって韓国海苔に首を突っ込んで来た人もいるが、何のメリットも無かったと思う。

まあ、韓国海苔が面白かったのは、一組と二組だけでやっていた頃までだった。それをみんなで分けようということになったものだから、売り先にまで直接荷物が行ってしまうのだから、商売も何もあったものではない。私はいつもいうのだが、商売というものは儲けなければいけない。また、業界をそのように仕向けて行くのがトップの役目ではないかと思う。私自身は、ずっとそのような気持ちでやって来た。

話は飛躍するが、海苔も随分採れるようになった。生産技術の進歩には違いないが、ヒネが残って仕方ないような状態が続いている。三十八年頃までは、囲えば必ず利益になったものだが、四十年頃になると、囲ったらダメになるという時代になってしまった。韓国海苔も国内産の海苔も、みんな妙味を失ってしまった。みんなが競争して売るようではダメだ。「売って下さい」といってお客が来るような時が一番儲かるのだから……。

韓国海苔について随分話して来たが、要は国内産の海苔の増産によって、必然的に韓国海苔の必要性が無くなったという、極めて自然な成り行きではなかったろうか。恐らく、もう以前のように、韓国海苔が何億枚も入ってくることは殆ど無いといっていいだろう。というのは、今、輸出適格品を作っているのは洛東江だけで、他の産地は殆ど若布生産に切り替わって、私が韓国海苔の育成に努めていたころの人たちの孫さんは、みんな若布の取り扱い業者になっているそうだ。寂しい気もするが、それが時代の流れというものではないか。むしろ韓国の経済が発展し、民生も向上して、韓国海苔が大量に消費されることになったのを喜ぶべきだろう。