海苔に命を懸けた男の一代記

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波乱万丈の韓国海苔輸入

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波乱万丈の韓国海苔輸入

翌二十八年は、韓国が不作で、輸入は二億枚程度に減ってしまった。そして、二十九年になると、全海苔の庄司君(全国海苔貝類漁業協同組合理事長・庄司嘉氏)が大物政治家の川島正次郎氏らを担ぎ出し、猛烈な韓国海苔輸入反対運動を始めた。

二十九年に入ると、全海苔漁連の韓国海苔輸入反対運動は、いよいよ燃え上がってきたが、これに対抗するためには輸入問屋組合の理事長が大阪にいたのでは都合が悪いということになった。理事長は、私が初代を一期だけ勤めたあと神戸乾物の乾源之介さんが二代目を勤めていたが、乾さんは丸上の村上忠七さんと何かと折り合わず、嫌気をさして一期でやめてしまい、三代日の理事長には大乾の村瀬利一さんが就任していたが、輸入反対運動と渡り合うには、どうしても理事長は東京にいるものでなくてはいけないということになり、結局、また私が理事長に就任することになった。三十年のことだ。なお、その前年に韓国海苔輸入問屋組合は、それまでの任意組合から協同組合に組織変更している。

二十七年にカーゴレシート方式による輸入が行われるようになってから、伊藤忠がずっと輸入に当たっていたが、一社だけでは弊害もあるというので、二十八年に貿易商社八社で韓国海苔輸入協会が組織され、初代会長に伊藤忠商事の渡辺物資部長が就任した。輸入協会を作ろうと提案したのも私だった。世話になった東食に輸入の実権を取り戻そうと思ったからだった。当時、東食の海苔部門の責任者は加藤堀雄君だったが、彼が神戸に転任するというので、後任の吉田駒三君には海苔のことを詳しく教えたものだ。その頃、私がいろいろと画策したものだから、周囲では「宮永は大損して少しはおとなしくなると思ったが、相変わらず策ばかり弄しているな」などといっていたようだ。

また当時、池内さんや田中さんから「輸入問屋組合も輸入協会に入ろう」という話が持ち上がった。私も輸入実績は一番大きいのだから、輸入協会に入りたくて仕様がない。ところが、丁度その頃、大揉めごとが起こってしまった。二十九年のことだった。当時、通産省の貿易局長だった松尾泰一郎君(後の丸紅社長、相談役)が松野鶴平代議士(松野頼三代議士の父君)に頼まれたといって、突然、韓国海苔をバーター輸入に切り換えてしまったのだ。その時すでに韓国側と輸入契約を済ませてしまっている。一晩のうちに全て引っくり返されてしまったわけだ。

松野代議士が、地元の熊本製粉の小麦粉と韓国海苔とをバーターしようという話だったのだが、政治力に見事にやられてしまった。しかも、輸入するのが中村君がやっている東和商事だという。私は早速「こんな怪しからんことがあるか!」と通産省に怒鳴り込んだんだが、もう、松尾局長が判を捺してしまった後だから、どうにもならない。

松野鶴平氏の政治力で通産省の松尾貿易局長が韓国海苔のバーター輸入を抜き打ち的に実施したことに、われわれは大いに憤激して早速通産省に抗議に行ったが、当の松尾局長は、その直前、松野氏に「ほとぼりが醒めるまでアメリカへでも行ってこい」といわれ、外務省の参事官だか一等書記官だかの肩書をもらってワシントンに行ってしまっていた。結局、無為替のバーター輸入は実行され、東和商事が輸入した韓国海苔をわれわれが買わされる羽目になってしまった。われわれは輸入の契約を済ませ、おカネも用意していたのに見事にさらわれてしまったのだからバカバカしい話だ。いろいろ聞いてみたが、バーターの小麦粉なんて大した量ではなかったようだ。とにかく、この一件では政治力の凄さというものを痛感させられた。松野鶴平、松尾泰一郎、そして東和商事の政・官・財が組んだ利権の大芝居だったのだ。

この事件を知っているのは、私ともう一人、早くから韓国海苔輸入問題に関心を持ち、この事件を取材・究明していた関西食糧新聞(現・食品新聞)の中野君くらいなものだ。中野君も、この事件の真相と経緯を報道するといって、東和商事の連中に随分脅かされたようだ。この一件では、東和商事よりも松野鶴平氏の儲けの方が大したものだったらしい。鶴平さんの方が一枚うわ手だったのだ。

元首相の鈴木善幸さんが、佐野商店専務の高木保次さんの中央水産会当時の部下だったという関係で、私は高木さんと一緒に善幸さんを訪ねた。善幸さんは、岩手県の山田湾近くの出身だから漁業には強い関心がある。しかも、彼は最初の選挙には社会党から出て当選しており、当然全海苔サイドなのだが、漁連側の情報を詳しく教えてくれた。また、秘書も親切な人で、後に宮古市長になった人だが、善幸さんがいない時でもいろいろと情報を流してくれた。

それから、元農相の長谷川四郎さんにも度々会っていた。彼は魚屋で、群馬の魚荷受組合長を勤め、県議から国会に出た人だ。彼とは私の平中時代に魚河岸でよく会っており、お互いに「四郎さん」「清ちゃん」と呼び合う仲だった。ゴム長をはいて河岸に買い出しに来ていたし、平中の店にも海苔を買いに来てくれた。選挙のときには陣中見舞いに随分海苔を贈ったものだ。前にも話が出た西村健次郎さんに疎開先を頼まれた時、長谷川さんの大間々の隠居所を貸してもらったこともある。疎開の時、長谷川さんは親交のあった日通の自動車部長に頼んでガソリン車を回してくれたが、当時は木炭車ばかりだったので、西村さんもびっくりしていた。西村さんが疎開し終わったその夜に大森の家は空襲で燃えてしまった。紙一重だった。まあ、私と長谷川四郎さんとは、そんな関係にあった。

こういう話もある。三十二年に韓国海苔に二千八百万枚の半端が出た。その時、ある有名な右翼が「宮永一人で独占するのは怪しからん」と脅迫してきた。私たちが箱根の奈良屋で一組の総会をやっていると、子分どもを引き連れ、クライスラーだかキャデラックだか大型の外車に乗ってその右翼がやってき来た。要は韓国海苔の権利を寄越せというのだが、私もうるさいので、大阪に行くと、彼の経営するミナミのキャバレーには随分行ってやった。池内さんや田中さんは心配して「宮永さん、あんな連中と付き合ったらあかん。殺されたらどないするんや」という。私は「良いじゃないか。韓国海苔が原因で殺されたら本望だ。有名になるじゃないか」といって笑い飛ばしたが、とにかく彼らは凄く執拗だった。「どうしても韓国海苔の権利を寄越せ」といい続ける。私は、とうとう根負けして三百万円を渡してお引き取り願った。領収書はくれなかったがね。

その頃、お役所から「韓国海苔は、あくまで適正価格で売るように」といわれていたのに、大阪の一組の組合員の問屋が私の売値の三倍、一ケース一万円の韓国海苔を三万円で売っている。それでも売れたが、やがて一組は怪しからんという声が強まってきた。