海苔に命を懸けた男の一代記

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全国海苔問屋連合会を設立

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全国海苔問屋連合会を設立

二十五年頃になると、各地の問屋組合も続々復活してきたので、そろそろ全国連合会を作ろうじゃないかという話が持ち上がって来た。二十六年のことだったが、関西食糧新聞(現・食品新聞)が、山本泰介さんら全国のそうそうたる人たちを東京に招いて座談会を催した。その席上で、早急に全国連合会を結成しようという話が煮詰まった。山本さんの意を受けた私は「それじゃあやりましょう。但し、私を専務理事にして下さい」と条件を付けた。山本さんは「いいよ。君の好きなようにやってくれ」といわれた。私は早速発起人会の準備に取りかかった。國光、荒木、村上、村瀬、池内といった各地の大物を大阪に集め、連合会の構想を協議した。やがて準備万端整い、二十七年五月、伊勢で第一回大会を開催した。

全国海苔問屋協同組合連合会の発足はスムーズにいったが、その途中で面白いことがあった。ある地方の大問屋が「宮永なんかがリーダーになるのは気に食わない」といって反対した。村瀬利一さんや吉田兼次郎さんが「そんなことをいったって、君のような地方の人間が時の人の宮永に敵いっこないじゃないか。束になってかかったってダメだ」といって説得したが、その人はただ「宮永がリードするのが癪だ」というばかりだ。尾河治助さんも荒木喜助さんも「今、海苔業界で一番力があるのは宮永なのだから、彼が最適任じゃないか」といって説得に加わった。私に強く反対していた人も渋々ながら納得せざるを得なかったようだ。

何しろ、私は二十五、二十六年と韓国海苔を一手に扱っただけでなく、国内産の上物も殆ど掌握していたからだ。その韓国海苔も二十四年には一気に五億枚に輸入が増え、東食の輸入代行も打ち切りになって、輸入は自由になった。そこで日本トレーディングが登場する。私はその日トレと組んで一手に扱った。その年、全南漁連の朴魯吉氏も来日して、直接取引が始まった。

また、二十六年には東食もカムバックして、やはり私が一手に扱った。当時は、まだわれわれが直接LCを組むことが出来なかったので、LC開設は東食にやってもらった。その頃、一時、東食が容共的商社だと誤解されて困ったことがあった。共産圏貿易に力を入れたというのが理由のようだったが、いろいろと喧しい、難しいことが起こった。銀行に教えてもらい、東食の裏書付きで私がLCを開設出来るところまで漕ぎ着けた。今も、その頃のLCがたくさん残っている。

二十六年の韓国海苔は随分儲かった。それは、予定していた量が朝鮮戦争の勃発で、半分で打ち切られ、二億枚しか人らなかったからだ。そして、二十七年頃から国内生産が増えてくるにつれて全海苔漁連が庄司嘉さんを陣頭に猛烈な韓国海苔輸入反対運動を始め、段々と輸入が面倒になってきてしまった。