公休日制定運動の中心になった池内さん、それに尾本さん、村瀬さんはもう偉かった。尾本さんはカネ小・吉野善定商店の一番番頭、池内さんが二番番頭、村瀬さんは加藤徳の四番番頭くらいで、早田さんが二番番頭だった。これらの先輩たちが公休日の実施に骨を折ってくれた。
その頃、もう大阪乾物青年団という組織があって、運動会など盛んにやったものだ。靭(うつぼ)とか天満とかの市場の対抗戦や連合運動会など、なかなかハイカラだった。そうした活動のリーダーたちが業界に残って、後に指導者になったわけだ。当時、私ら若い者たちは、これらの先輩たちは偉いなぁと思って尊敬したものだ。
それからもずっと海苔を担当していたが、やがて平長と中野商店の中野安太郎さんとが合弁で新しい海苔屋を始めることになった。経緯をいうと、中野さんのおじいさんに藤楠さんという人がいて、九州海苔を買い付けて平長に売っていた。そして、中野さん自身は朝鮮総監府指定商になって、専ら朝鮮海苔を輸入し、平長がその荷受けをしていた。当時の朝鮮海苔指定商は二十社ほどあった。
やがて、藤楠さんが九州海苔の買い付けに手が足りないから、清吉を手伝いに使わせてくれないかと頼んできた。その頃、私は清の下に吉をつけて清吉と呼ばれていた。藤楠さんは私の家内のおじいさんにあたるのだが、清吉は気がきいた子だからひとつ海苔商いを仕込んでやろうというわけだ。私は平長に籍を置いたまま藤楠さんの手伝いをすることになった。まぁ、今でいう出向社員みたいなものだ。
今の高道や滑石やら熊本県の城北地区へ行って集荷し、箱詰めをするのだ。当時は漁連などないから、生産者と直接値決めする。いわゆる浜買いだ。漁連の代わりに各浜に総代さんというのがいて、そこに荷を集めて値段を決める。そこまではいいのだが、さぁ箱が無い。藤楠さんが箱を探しに行くからついてこいという。何のことはない、タバコを入れた木箱の空き箱だ。朝日とか敷島とかゴールデンバットとかの空き箱だ。それをたくさん集めなければならない。海苔箱や印籠箱ができたのはずっと後の話だ。
さて、海苔を入れる、いわゆる印籠箱、茶箱が静岡でできたのは昭和五年で、大正時代はまだタバコの木箱の空いたのを集め、中に新聞紙を敷いて、それに海苔を詰めていた。その空き箱を集めるのに一苦労したものだ。普通の箱で二銭か三銭、大きいもので五銭だったと思う。敷島の箱などはカサのない海苔だと六千枚くらい入った。まぁ、普通の箱でも五千枚は入った。
その頃、熊本では今の浦島海苔、松本さんの佐一さんは次男坊で、その上に直紀さんという長男がおり、ヤマ直といっていた。それに坂本栄さんの兄の三郎さん、こういった人たちが九州のボスだった。しかし、その時代の九州海苔はまだ微々たるもので、何といっても東京湾内産が圧倒的に多かった。
第一、その頃の九州海苔ときたら砂が一ぱいで、よほどうまく買って、うまく売らないとどうにもならない代物が多かった。浜で潮がさーっと引くと砂を噛んでしまう。よく洗えといってもなかなか思うようにいかない。地方向けの太巻き用の海苔などは砂を知らずに食べてしまうのではないかと思うほど…… 。でも、すごく安く、一帖二銭か三銭だ。東京湾内ものが十二銭か十三銭の時代にだ。
しかし、前原、加布里(福岡県糸島郡)あたり、つまり今の玄海の海苔は砂がない。その代わり色がすぐにさめてしまう。潮が強いのだ。あのへんにもよく行った。藤楠さんが開拓した浜だ。それから大分の中津にも開拓に行ったのだが、あのへんもどうしても砂が混じる。結局、加布里の海苔だけ砂がないから売れる。「清吉の持ってくる海苔はジャリジャリだ」なんていわれたら大変だから、専ら加布里や八代あたりの海苔を集めた。しかし、すぐにいわゆるハトが飛んでしまう。白い斑点が出てしまうのだ。
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