海苔に命を懸けた男の一代記

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印象に残る先輩の方々

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印象に残る先輩の方々

さて、この辺で、長い業界生活で巡り合った方々のうちで、とくに印象に残る方の何人かを思い出して私との関わりを話してみよう。

まず、どなたよりも山本泰介さんだ。私の人生で忘れ得ぬ人、山本さんは、それはスケールの大きい人物だった。この方には礼儀作法から始まって、酒の飲み方、そして「長」になるための心得等々、数知れない教訓を頂いた。帝王学とでもいうのだろうか。全国海苔問屋協同組合連合会会長でお亡くなりになるまで、私は専務理事としてお仕えしたが、この間、私の人生に実に多くの教訓を下さった。それでいて、私が「これは、こうしたいと思うんですが」とご承認を頂きに行くと、決まって「よきに計らえ」という調子で、決して「ああせい、こうせい」とはおっしゃらなかった。「もし、間違っていると思ったら自分で直すだろう」というわけだ。とにかく、われわれとはスケールの違った方だった。

私が今日あるのも泰介先生のお蔭だといって憚らない。私は海苔屋仲間の前では、海苔屋らしく振る舞ってはいるが、連合町会長など地域の要職も務めているので、政財界のお歴々とのお付き合いも多い。それをこなせるようになれたのも山本さんのお導きによるものと感謝している。山本海苔店が戦後法人化する前は、先代・徳治郎さんと二人店主という形で、徳治郎さんが営業面、泰介さんが外交面と経理部門を担当していたが、店が法人化し、泰介さんご自身も東京・中央区の初代公選区長に当選されると相談役になられたわけだ。

山本泰介さんを中央区長に担ぎ出したのも私だが、選挙中に面白い出来事があった。それは、山本さんにもいわなかったことだが、海苔業者が挙げて応援に駆け回っている最中のことだ。私は海苔と一緒に千葉から運んで来た白米、当時は銀シャリといっていたが、それを握り飯にして運動員に振る舞った。それが誰かの目に止まって警察に投書が殺到したらしい。当時、まだコメは統制中だったから、統制違反ではないかというので二時間ほど堀留署のブタ箱に入れられてしまった。開票が済むまで入っていてくれ、というのだったが、買収ならともかく、自派の運動員に飯を食べさせただけでブタ箱入りとは酷い時代だったものだ。余談はさて置き、今でも山本泰介さんの偉大さを思うと、改めて尊敬と感謝の念を禁じ得ない。

山本さんとともに思い出されるのが、東食の二代目社長だった力石寿武さんだ。海苔業界人ではないけれど、実に社交家で、政官界の方々を随分紹介して頂いたものだ。あれほど気配りの行き届いた方を私は知らない。あらゆる人たち、上にも下にも実に上手に付き合った人だった。力石さんは貿易庁を初め役所関係のコネ作りに大変お世話になった。海苔屋流のやり方ではなく、商社型の本当の折衝法だった。人脈もわれわれとは全く違っていた。それまでは、主として農林省を相手にしていたが、力石さんの知遇を得てからは、われわれの交渉舞台は通産省、貿易庁にも広がり、強力に推進されるようになった。政財界など、今までは海苔屋が知ることの出来なかった分野の裏表まですっかり教えて頂いて、それは有益だった。

次に忘れられない方は、大乾の村瀬利一さんだ。私の先輩であり、お師匠さんでもあった。私が分に出過ぎた言動があると注意もしてくれたし、意見をされたことも度々あった。取っつきは良い方ではなかったが、それは情のこもった方だった。最後までお付き合いさせて頂いたが、全く裏表の無い方で、安心して肝胆相照らすことが出来た数少ない方だった。私も村瀬先輩を立てたが、彼も私の苦労を良く理解してくれた。お世辞は全く無かったが、実に心温かい人物だった。

山本さんにしても、村瀬さんにしても、包容力のある大人物で、もう、あのような方は海苔業界にはいなくなってしまった。何だか海苔屋が小さくなってしまったみたいで、寂しい限りだ。時代が違ってしまったのかも知れないが、ああいう頼り甲斐のある、何でも相談出来る人がいなくなってしまった。村瀬さんに「私はこうしようと思うんですが」というと、村瀬さんは「うーん、ちょっと待てよ、これは暫く考えたらどうかね」といわれて、一日中考えたこともあった。その結果、私が当初思っていたこととは違う良い案が浮かんだ。あのように温かい心根の人はいなかった。未だに感謝している。

また、アドバイスもよくしてくれた。かつてのK乾物の一件の時、私は歴史のある同社を潰したくない一心で、何とか経営を肩代わりしてやろうと思った。すると、村瀬さんは「君は、えらくK社に肩入れしているようだが、気を付けた方が良いよ」といわんばかりだった。私に損をさせまいという親心からだったのだろう。私は、村瀬さんの注意を聞いて良かった。K社は間もなく倒産してしまった。それは、私が経営を引き受ければ、或いは立ち直ったかも知れないが、余計な苦労をしないで済んだことは事実で、これも村瀬さんの忠告のお蔭だと感謝している。良き先輩の忠告は素直に聞くものだとつくづく悟ったものだ。とにかく、村瀬さんという方は大阪商人の鑑といっても過言ではないと思う。

お世話になった方々に、もう一人、忘れられない方がいる。岩崎勇次郎さんだ。山本海苔店の現常務・岩崎啓吉さんの父君だが、大正三年頃から山本さんで修業した後、日本橋蠣殻町で岩崎海苔店として独立した。そのお父さんも海苔問屋だったが、戦争で統制になると、勇次郎さんは東京海苔小売商組合の事務局長になり、山本徳治郎組合長を補佐していた。戦争が終わると、私は信州に疎開していた岩崎さんに「お店(山本海苔店)の復興だ。直ぐに出てきてくれ」といって、信州から引っ張り出した。岩崎さんは、山本海苔店の復興に尽力する傍ら山本一族の息子さんらを初め、業界有力者の子弟の結婚の橋渡しや仲人を数々務めるなど、戦後復興期の山本海苔店の文字通りの大番頭として活躍した。実に好々爺で、本当に身近な忘れ得ぬ人だ。「君は、飲み過ぎだ、やり過ぎだ」といって随分注意も受けた。この方も私の海苔人生で忘れられない人だ。

岩崎さんは、丁度私の一回り上の戌年(いぬどし)だったが、彼はそれにひっかけて「宮永、お前はブルドッグで、オレはチンだ」というのだ。とにかく、岩崎さんは私の若い頃からとても可愛がってくれ、いわば私の兄貴分だった。終戦直後、お店(おたな)再興のためだといって、私に信州から引っ張り出された岩崎さんは、店の裏手につくったバラックで夫婦で寝泊りしながら、それは一生懸命に働いた。岩崎さんの温厚で真実味溢れる人格に私はいい先輩、兄貴分をもって実に幸せだとつくづく感じたものだ。山本泰介さん、力石寿武さん、村瀬利一さんという三人の方々とは違った意味で、私の終生忘れられない岩崎さんである。

八十年の問、海苔業界に身を投じてからでも六十有余年、随分多くの人たちとお付き合いしたが、時には裏切られたり、失望を味あわされた人もいる。しかし、今挙げた四人の方々は、私にとって商売の師というよりも、むしろ人生の教師であり、今日の私を育てて下さった大恩人だと思う。こうした方々に巡り合い、ご指導を受け、親しくして頂けたことは、私の生涯の幸福であったと心底から思う。いずれも故人になられてしまって、寂寞の念を禁じ得ないが、いろいろと賜った教訓を思い出しながら、その面影を偲ぶこと切なるものがある。

さて、私が海苔業界に身を投じてから六十五年が過ぎた。この間の業界の変わりようといったら、何ともいいようがないほどだが、最大の変化といえば、本当の意味での問屋が無くなってしまったということだろう。みんな挙って入札指定商になるとか、安くもないのに浜買いをするとか、いわゆる問屋制度が崩壊してしまったことが最も大きな変化ではないだろうか。加工海苔の著しい発達もあるだろうけれど……。