海苔に命を懸けた男の一代記
わが海苔人生
静岡と三州の海苔の思い出
次に静岡の思い出話に移ろう。
静岡の海苔といえば、何といっても三保海苔だろう。三保の松原の海岸に海苔漁場があった。清水港が発展する昭和四、五年頃までは、そこで盛んに海苔を採っていた。桜田さんや片山さんが三保海苔に一生懸命力を入れていた。当時の両社は、蜜柑や青果物を主に扱っていたが、ボテ屋(行商人)が大勢出入りしている。それらの人に海苔も一緒に持たせたのだが、それが大変な量だった。この両社は三保海苔がダメになると、三州や伊勢もの、或いは朝鮮海苔を仕入れて行商に卸すようになった。
三保の海苔は、量的には少なかったが、品物は良く、おいしかった。静岡の問屋さんは、県内はもちろん、甲州路を抑えているから市場は大きかった。甲州といえば、不思議に青混ぜが売れる土地で、桜田さんも片山さんも、三州や伊勢の青混ぜを仕入れては売っていた。石野さんもそうだった。千葉の青混ぜも静岡に送っていた。何故、青混ぜが売れたかというと、香りがいいからだったのだ。
当時は、甲州だけでなく、雛祭り頃になると、群馬など北関東にも青混ぜが良く売れたものだ。青混ぜや青板で巻き寿司を作るのだ。お節句の風物詩とでもいおうか。いずれにしても、甲州や北関東の青混ぜ消費は桜田さんや片山さんが開拓したのではないかと思う。三保漁場が、ダメになってから……。
また、この両社は、北海道へも蜜柑を送るのだが、それと一緒に海苔も売った。だから一番最初に北海道の海苔市場を開拓したのも、この両社ではないかと思う。東北の問屋が出荷する以前にね。蜜柑と海苔は生産時期も同じだから都合が良かったわけだ。桜田さんや片山さんの先代から、よく自慢話を聞いたものだ。片山さんは、東京に進出しようと、昭和八年に国分さんのそばに支店を出した。その時の支店長が静岡の服部君の先代だ。三州や朝鮮海苔を東京市内の仲買いに売っていた。桜田さんが蜜柑や海苔だけに飽き足らなくなって、缶詰製造に乗り出したのも丁度その頃のことだ。
静岡の海苔といえば、三保のほかに舞阪など浜名湖近辺でも採れたが、黒は採れなかった。当時は早張りするせいか、青がはびこった。その青をやはり静岡の人たちが買っていた。東京へ出すようなものではないし、入札も行われていなかったので、静岡の問屋が仕切って地元の消費に充てるか、佃煮屋に売る程度だった。まあ、浜名湖の海苔は新幹線の車窓から見ても判るように微々たるものだった。
浜名湖にせよ三州にせよ、青は殆ど佃煮に回されていた。当時の海苔佃煮は、柳屋の「江戸の華」がトップブランドで、その後、丸上が製造を始め、カゴメや桃屋も市場を賑わすようになった。三州では今こそ黒が採れているが、昭和の初期までは殆ど青だった。三州から豊橋にかけての海苔生産は歴史こそ古いが、市場性が出てきたのは明治末期から大正に入ってからだろう。この地区は、青が多く、黒になったのは戦後のことで、西三河も青が多かった。丸上のおやじさんは利口だったから、自分のところで作る海苔佃煮に都合良いように青を作るよう仕向けたのではないかと思う。
丸上の村上忠七さんは、大変に商才のあった人で、十二、三歳の頃からいろいろと商売をしていたようだ。奥さんの弟の延平さんという人が番頭をしていたが、この人がまた素晴らしい切れ者で、どんどんと店を大きくしていった。しかし、その頃のあのへんの海苔問屋では、何といっても豊橋の山安が絶対的に強く、他の店は歯が立たないほどだった。永井さんの先代が山安の総支配人をやっていた時代のことだが、日本中に三州の海苔を売りまくっていたものだ。三州の黒は、殆ど山安が牛耳っていたといっても良いくらいだった。その後、永井さんが独立した頃から、次第に丸上が台頭してきて、三州の海苔の半分も買うようになった。
さて、お隣りの西三河だが、ここも今では黒になっているが、戦前は青が多かった。西三河の黒は変色し易くて、どちらかというと東三河の方が品質が良かった。いずれにせよ、東も西も三州の海苔は地場での消費か、東京へ持って行って下物として売るくらいのものだった。大体、あの辺は遠浅の海岸線で、半農半漁の人が多く、魚も貝もたくさん採れるところだから、余り海苔には力が入らなかったのかも知れない。しかし、戦後は段々と品質が向上してきた。生産者の努力だ。あの辺の生産者は、実に研究熱心だから……。