海苔に命を懸けた男の一代記

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三陸海苔の戦前・戦後

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三陸海苔の戦前・戦後

九州の話はこれくらいにして、その他の産地の思い出話に移ろう。まず、北の三陸から……。

戦前のことだが、私は早くから三陸の海苔を何とかしようと考えていた。ちょうどその頃互幸商会の片桐さんが訪ねて来られて、三陸の海苔を扱ってくれないかと頼まれた。その頃はまだ東京の本場物が全盛だったから、場違い物はなかなか売れない。まして互幸さんは松島近辺のものだけだ。むしろ当時は、金音・林さんの気仙沼、大船渡あたりのものの方が良い、売りやすいといわれていた。事実、互幸さんから仕入れたものを売ったが、どうも色が褪めるのが早い。今では立派なものが採れているが、当時はそうではなかった。九州よりはましだったけれど……。いずれにしても場違いには変わりない。

一生懸命売ろうとしたが売り先がない。それに、当時の三陸は当たる年と当たらない年とが極端で、気仙沼などは一年おきといっていいくらいだった。それを何とかしようと思って努力したのだが、力を入れた割りにはうまくいかない。折角、荷物を集めてくれた荷主たちにカネを上げようとすると利益が出ない。戦前の三陸海苔が東京で伸びなかった原因はこのへんにあるのではないだろうか。そのようなわけだから、当時の三陸海苔は地場消費のほかは専ら北海道に出荷していた。決済は遅かったが、東京へ出すよりは良かったのだろう。もっとも、大森の金子さんなどは三陸物をかなり扱ってはいたが……。

戦前の三陸海苔は四角いような大きな箱に入れていた。とくに気仙沼の箱などは見事なものだった。中身は普通の箱と同じ六千四百だけど、入れ方がおかしいのだ。それに仙台判といって海苔そのものが大きい。大阪や北海道はそれでも良いが、東京は小判だから困った。そのうちに松島は互幸さんの努力で小判になった。

とにかく仙台の海苔は一番大きい。七寸もあったのだから、太巻きには都合が良い。だから地方には向いたのだろう。同じ東北の海苔でも、南に下って松川に来るとフカフカだった。全般に東北地方の海苔は、東京の問屋にとってはあまり力が入らなかった。そして東北は戦前には海苔があまり売れないところだった。韓国海苔にしても、国産海苔の配給にしても、あの食べ物のない時代に配給を欲しがらなかった。とくに青森と秋田は海苔は要らないといって取ってくれなかった。山形でも、大風甚吉さんが懸命に普及努力をしてから消費が増えたのだ。

東北の産地問屋で歴史があるのは、先にも出た互幸、金音・林、内海、日渡、横田屋、勝正、鳥越、消費地では山形の大風、仙台の千葉、飯塚、福島の中野といった店だろう。まあ、三陸の海苔が東京などへ盛んに入るようになったのは戦後かなり経ってから、つまりわれわれが全海苔の庄司さんと一緒に入札をやるようになった三十年頃からだといっていいだろう。東北の方々も皆さん一生懸命にやっていたが、海苔専業という店は少なくて、鰹節、昆布、若布などの海産物との兼業が多かった。今はそうではないけれど……。

内海さんの先々代などは、朝鮮海苔や九州の海苔を随分買ってくれた。とくに青芽の良い朝鮮海苔をよく買ってもらったものだ。中野さんは、丸上さんとの取引が多く、三州物をたくさん買っていた。仙台の千葉次郎さんも東京以西の海苔の取引が多かった。まあ、東北の問屋は地元産は北海道へ出荷し、地元消費は九州、三州、あるいは朝鮮海苔で賄うといった構図だったといえるのではないだろうか。地元産より、その方が扱いやすいというのだった。とにかく東京で市が始まり、東北の海苔が出品されるようになってからは、質も量も戦前とは比較にならないほど向上した。この間の生産者と地元問屋の努力に敬意を表したいと思う。