海苔に命を懸けた男の一代記
わが海苔人生
韓国海苔輸入再開と統制撤廃
では、そろそろ韓国海苔輸入の発端に入ろう。当時は、まだ政府の管理貿易だから、政府が輸入するのだ。しかし、その前に、韓国海苔輸入協会を作ろうと農林省に申請に行ったが、お前は兼職になるからダメだという。そこで、私の伯父の中野藤助という人がいるから、その人を代表にして、戦前に朝鮮海苔を扱っていた人たちをメンバーにしようとした。そして、会員名簿も事業計画書も作って申請したが、まだ管理貿易だから、政府が直接監督しなければいかんという。しかし、それはそれとして二十一年にはみんなで出資して韓国海苔輸入協会という組織を作ってしまった。そして、それらの代行を東京食品がやろうというわけだ。
輸入協会設立のお膳立てから申請、認可、輸入代行のシステムまで一切を私がやった。つまり、政府の管理貿易ではあるけれど、東京食品が輸入代行し、協会員に配分するというわけだ。そして、戦後最初の韓国海苔が輸入されることが決まったのは昭和二十一年のことで、輸入量は全羅南道産の五千万枚だった。その荷物が下関に入ったのは、二十二年二月のことだったが、何しろ懐かしい韓国海苔が久しぶりに入って感無量だった。
折角入った戦後初の韓国海苔五千万枚だが、面倒なことになってしまった。海苔はまだ統制物資だから自由に売るのは罷りならん、欲しい県は、農林省に申請した上で配給を受けなければいかん、というのだ。その準備をしていると、今度は公正取引委員会から「ちょっと来い」だ。東京食品が一手に輸入代行をしていることについて、誰かがイチャモンをつけたらしい。そして、輸入協会は法に触れる、業務停止だ、ということになってしまった。肝心の五千万枚の韓国海苔は、もう全部配分し終わり、代金も回収して東京食品が政府に納めてしまっている。当然利益も出て、協会員に配分してしまった。さらに、海苔統制組合の事務所に韓国海苔輸入協会の事務所を同居させていたのもいけなかった。「韓国海苔輸入協会の黒幕は宮永だ。カネの出所もあいつに違いない」ということになってしまった。輸入協会を作る時に四十八万六千円ほどの費用がかかったが、それを私が立て替えていた。それやこれやが重なって韓国海苔輸入協会は閉鎖機関に指定されてしまった。
室町の三井本館にある公正取引委員会に呼ばれた時のことだが、柏木委員長や小笠原長正伯の孫の小笠原さんらが「宮永は怪しからん。四方八方に出資している」というのだ。結局、閉鎖機関に指定されて、私は立て替えていた四十八万六千円は没収され、大損をしてしまった。それはともかく、私は韓国海苔はこれからまだ沢山輸入しなければならないのに、こんなことではいけないと思い、貿易庁に乗り込んだ。長官は、東京食品の力石さんの伯父さんだ。輸入協会は解散させられたけれど、まだ東京食品が旗振り役であることに変わりはない。いろいろ相談した結果、農林省の監督の下で東京食品が輸入を代行するという新しいシステムが出来上がった。この方式は二十三年まで続いた。
そして、二十四年になって鉱工品貿易公団が出来、そこで海苔の入札も行われるようになった。海苔が鉱工品とはおかしな話だが、何もかも公団方式でやらないと、貿易庁は面倒を見切れないというわけだ。公団は、三井の二号館にあったが、食品も何もかも扱っていた。公団方式になって初めて民間企業が韓国海苔を扱えるようになったので、私は新しい韓国海苔輸入団体を作り、その理事長になった。東京食品一社の独占には強い不満があったので、公団が荷捌き商社を公募したところ、輸入希望量は何と五十何億枚かになってしまった。そこで、止むなく実績割当方式を採用することになり、その元捌き商社団体の理事長に私が就任したわけだ。
私が理事長に就任した韓国海苔の新しい元捌き商社団体は、会社名だけでなく、個人名でも加盟させた。実績割当だから……。もちろん、私が断然トップだった。その理由は、東京食品と新韓貿易の分も申請したから、私の分も合わせて三社分申請したことになる。結局、二十一年の輸入量は五千万枚だったが、二十三年にはそれが一気に三億五千万枚に増えた。私はそれを何とか早く五億枚にしたいと思ったが、それが早くも二十四年に実現した。前にもいったが、当時はまだ政府の管理貿易だから、海苔も鉱工品貿易公団の管理下にあって荷受商社は二十六社だった。このうち在来の海苔屋は十六社で、多くは海苔のことを知らない素人の商社が応札した。これには苦労した。何しろ海苔のことなど全くご存じない人たちだから、売り方も知らない。直ぐに三社ほど潰れてしまった。とにかく、入梅になっているのに、ホイロしないから湿気で完全に海苔が縮んで二百円くらいの海苔を五十円くらいで叩き売っている。潰れるのも無理はない。
貿易庁は私を呼び付けて「君、この勘定をどうする?」というのだが、私は「そんなこと、知ったことではない。まして、私の責任なんかではない」といってやった。すると係官は「それじゃあ現物を押さえよう」といって、大勢で売れ残りの海苔を押さえた。そして「宮永、責任をもってこれを売れ」という。私は、仕方なくそれを火入れして、五十円、四十円、縮んで小さくなったのは三十円くらいで処分してやった。そんな苦労を役人には判らないのだ。ただ「湿気た海苔は臭い」というだけだ。そこで火入れをして臭みを抜くところを役人にも見せてやった。とにかく物の無い頃のことだから、臭みさえ取れば何とか処分出来た。多分、刻み海苔にでもしたのだろう。
それにしても迷惑した。海苔屋は奇麗に売っておカネもちゃんと収めたのに、素人の商社のお蔭で、何の責任もない私が理事長だからといって始末させられたのだから……。そういえば、ちょうどあの頃、早船事件という巨額のツマミ食い事件が起こった。あれにも危うく巻き込まれそうになった。湿気た韓国海苔の処分に手間どって代金を収めるのが遅れたものだから、宮永も早船と関係があるのではないかと痛くもない腹を探られて、警視庁に呼ばれたこともあった。貿易公団の人も説明してくれて、あらぬ疑いは晴れたが……。とにかくこの一件には苦労した。お役人連中は、海苔が湿気るとどうなるかなど、さっぱりご存じない。それを処分するにはどうしたらいいかも知らないから、随分苦労してしまった。
ここで、海苔と湿気の話をしよう。二十三年の韓国輸入の時は酷かった。とにかく、海苔が箱入りでなくて、カマスやムシロに詰めて来るのだから、下関に検査に行くと、カマスの中で海苔が団子になっている。下積みの方はもうメチャメチャ。カマス入りの海苔にもカビが生えている。今の人には想像もつかないだろう。その頃は、まだ政府の管理貿易だし、外貨も乏しかったから公団と外国とはドル建て取引だが、われわれは円建て取引だった。一級品が二百円、二級品が百七十円、三級品が百四十円で応札したと思う。しかし、湿気たら一級品も三級品も同じだ。
そのうちに、韓国海苔を東京食品が独占していることに嫉妬する空気が段々に強まり、その黒幕の宮永は怪しからん、というムードも業界に出て来た。しかし、私には面と向かっていえないから、風向きは東京食品に厳しくなって行く。荷揚げから荷捌きまで独り占めにしているのはいけない、というのだが、東京食品は輸入代行商社に指定されているのだから致し方ない。入札をしても、いつも東京食品に落ちる。あれはおかしいと随分いわれたものだ。しかし、素人がやったところで見当もつかない。船から荷物を揚げ、庫入れしてそれから各県に配送する、いわゆる荷捌きにどれくらいの費用が掛かるのか、商社の人にだって判らない。ところが、私には長いこと統制配給の経験があるから、何でもよく判る。つまり、私がいるからこそ適正な値段が出せるというわけだ。それが判らない人は、いい加減な値段を書いてしまうから札が落ちない。
韓国海苔は、二十三年までは各県の荷受に配給されたが、二十四年からは自由に自分の得意先に売ることが出来るようになった。二十三年までも、配給とはいうものの、海苔は準統制だったから、各県の申請によって行われた。青森、秋田、鹿児島、宮崎、長崎などは、韓国海苔など要らない、といって申請してこない。韓国海苔なんて見たこともないという。それはそうだ。戦前は「朝鮮海苔」などといって売っていたわけではない。帯を取って売っていたから末端の人は知らないわけだ。
とにかく、二十二年の十月に、国内産も韓国産も海苔の統制は一切解除されたのだが、二十三年までは混乱を避けるために一応荷受会社が指定されていた。とくに韓国海苔は管理貿易の対象にされていたからだ。そして、韓国海苔を取らない県の分は全部東京に回した。東京は、申請のなかった県の分も喜んで引き受けてくれた。その一部を大阪にも回したが……。
戦時中の話や、韓国海苔の話が続いたので、このへんで統制解除後の海苔業界の模様を話してみよう。まず東京湾だが、二十二年十月に統制が外れてオープンになったから、海苔はめいめいが自由に仕切られるようになった。ところが、深川や芝あたりではまだ統制時代の気分が抜け切れないのか、生産者組合が集荷して問屋に持って来る。生産者がめいめいに問屋に持って行くより組合に一括して出荷した方が楽だというのだ。それが面白くないという生産者は自分で問屋に持って行った。私は、湾内の生産者たちに「全部キャッシュで買うからどんどん海苔を持っていらっしゃい。うちは山本海苔に納めるのだから、精々良い海苔を持っていらっしゃい」と呼び掛けた。東京の生産者も、千葉の漁民も競って上物を持ってきてくれたので、私はその海苔を山本海苔に一手に納めた。
今から思うと微々たる量だったが、統制が外れたからといって、そう一ぺんに海苔が採れるわけがない。当時の問題は海苔網だった。前にもいったように、稲の穂で編んだスベ縄で作った網は、直ぐに切れてしまって使いものにならない。そこで、東食に頼んで台湾から棕櫚(しゅろ)を輸入してもらった。
その頃、東食を八百万円に増資する話が出た。創業時の十八万五千円から五十万円の資本金になっていたが、それを一気に八百万円に増資するというのだ。その理由というのが海苔網を作るのに棕櫚(しゅろ)だけでは足りないからジャワ島から椰子の木の皮を輸入する、そのための増資だというのだ。椰子の木の皮の繊維は丈夫だから海苔網には格好の資材だ。輸入した椰子の樹皮を製網会社に渡して海苔網を作らせた。問屋なのに生産資材の面倒まで見たわけだが、そうにでもしないと海苔が出来ない。それ以来、各漁業組合に椰子網が普及するようになった。でも、東京湾内以外の浜は生産の復興は遅かった。東京湾内でさえ、統制が解除された二十二年の新海苔は、二億枚も採れただろうか。まあ、全国的に見て、韓国海苔を入れても、五億枚がせいぜいだったのではなかろうか。
とにかく店を開けた問屋には、生産者が海苔を持ってくるようになった。仕切り問屋もみんな上物を私の店に持ってきた。産地問屋もどんどん復活していったが、やはり頭(かしら)物は私のところに持ってきてくれた。私の方でも、面倒なので極力産地問屋を利用した。下物は誰でも扱え、何処にでも売れるが、頭(かしら)物だけは日本橋へ売るということになったのだ。
このへんで問屋組合の動きに移ろう。さっきもいったように、統制は昭和二十二年の十月に撤廃され、統制組合は直ちに解散して東京海苔卸商業組合が結成され、統制組合に引き続いて山本泰介さんが理事長に就任したこの組合は、間もなく今の東京海苔問屋協同組合と改称するが、発足当時は、まだ大森組合も一緒だった。その後、大森は戦前同様、分離独立したのを機に改称したものだ。二十五年のことだったと思う。
その頃から海苔は目に見えて増産されていった。民生もそろそろ安定しかけた頃だ。九州地区も私が古賀さんたちを説得して、九州海苔株式会社を作らせたし、三河や伊勢も生産を復活した。知多でも小浅さんなどはトラックでどんどん荷物を送ってきた。東京湾内物が足りないので、知多の上物を小浅さんが集めてくれたのだ。愛知の上物も水谷喜造さん、後には尾河治助さんが送ってくれた。しかし、何といっても、小浅の力が強かった。あれでグンと伸びたのだ。
当時の私の決済は、荷物が着くとすぐに全額をキャッシュで払ったから大変喜ばれた。何しろ、その頃の東京の海苔消費量は全国の七五%程度を占めていたから、手当てが大変だった。焼海苔や味付海苔はまだ微々たるもので、全部といっていいほど端売りだった。その頃は、まだ全ての家庭で炭火で海苔を焙って食べていたから。焼海苔ももちろんあったが、まず高級品扱いだった。だってコメにありついて、その上、海苔でも手に入ったら凄い御馳走だった時代だ。それに、当時は焼海苔を入れる缶など無かった。缶の統制解除はずっと後のことだし、第一、海苔を売るよりブリキを売った方が余程儲かった時代だったから。