空襲下の東京海苔問屋業界

 さて、このへんで戦時中の思い出を話そう。昭和十八年には、まだ海苔屋さんは統制・配給の仕事に従事出来ていたが、十九年になると、みんな疎開を始めた。一人減り、二人減りしてそれこそ櫛の歯を引くように去って行く。海苔屋さんは信州の人が多いから、その殆どが信州に疎開してしまった。組合の従業員も次々に辞めていく。とにかく、どんどん食糧が無くなっていく。長い行列を作ってお粥をもらったりお藷をもらったり、そんな生活にみんな嫌気がさしてしまっていた。
 私たち組合員も精一杯努力して、ヤミ物資を調達して組合員に配ったものだ。例えば、千葉あたりから海苔を運ぶ時に、トラックの一番下にお米やら落花生を積んで持ってきたが、もちろん大量だと判ってしまうから一度に精々米一俵くらいなものだ。
 組合には女子も大勢いたが、やはり一人減り、二人減りしていった。そして、十九年の十月頃から、危険を避けるため女子は使わないようにしようということになった。それでも疎開先のない女子は東京を離れられない。そんな子たちには、随分お米などを分けて上げたものだ。
 そうこうしている間に、十九年十一月三十日、日本橋一帯が初めて空襲を受けた。三越本店の前の一角と神田が第一回の空襲で焼けたのだが、その時、初めて火叩きなどを持って消火に当たった。焼夷弾は路上に転がっていて、まだ発火していないうちは放り投げられるのだが、家と家との間に落ちたものは、直ぐに燃え上がってどうにもならなかった。
 さて、その月のことだが、とうとう山本海苔店も品不足で店仕舞せざるを得なくなり、統制組合(その時は荷受組合から統制組合になっていた)を山本の店に移した。
 しかし、もう海苔が入らない。組合の仕事も開店休業状態だ。細々と入っては来るが、小売店に配給すると一日か二日で仕事は終わってしまい、あとはやることがない。その頃、旧・平中の店に防空壕が掘ってあったが、狭くてどう仕様もない。そこで、山本さんの店の前に大きな防空壕を掘った。しかし、当時の旦那衆には空襲の恐ろしさがなかなか判ってもらえず往生した。「うちの倉庫は絶対大丈夫だ」などといって信じ切っている。焼夷弾は上から落ちてくる、ということが判らないのだ。それが、日本橋一帯が焼けてしまって、やっと気がついたのだ。
 日本橋から神田にかけての第一回の空襲による焼け野原を見て、少しは空襲の恐ろしさが判ったようだが、中にはまだ呑気なことをいっている人もいた。「あのへんは、バラックみたいな建物が多いから燃えたのだろう。うちの倉庫は大丈夫」というわけだ。召集を受けて入隊する人も相次ぎ、徴用されて工場などで働かされる人も実に多かった。私にも四回も徴用令状が来たが、その度に農林省や東京都の経済部長らに「私がいなくなったら、海苔の配給業務はストップしてしまう」というようなことをいったので、うまく取り計らってくれた。だから、この近辺では私一人が残った。私は疎開もせずに海苔の配給に一人頑張った。
 その頃、今の三越の別館があるところに山本海苔店の前蔵があった。それが鉄筋三階建てなので、大丈夫だろうと思い、そこに海苔などいろいろな物資を入れておいた。疎開先に持って行く荷物を入れた人もいる。二十年二月の空襲も凄かった。第一回の空襲で焼け野原になった所に防空壕を掘ってあったので、私はそこへ逃げ込んだが、壕のすぐ傍に爆弾が落ちて、壕が崩れてしまった。私は一瞬気絶したのだろう。周りの人たちは「宮永が出て来ない。死んでしまったのだ」などといっていたそうだ。
 その頃のエピソードだが、海苔問屋にKさんという三十貫はあろうかという巨漢がいたが、そのKさんは防空壕に身体がつかえて入れない。外でうろうろしている。そんな恐ろしい目にあったKさんは遂に疎開するといい出した。しかし、妻子は連れて行かずに、浅草にいる彼女だけを信州の渋温泉の近くに連れて行くという。まあ、空襲さ中の駆け落ちだ。Kは「宮永も、俺の駆け落ちに協力しろ」というのだ。あの時は、腹が立つやら、困るやら、何ともいえない気持ちだった。あとで本妻さんに「あの時は宮永さんも主人に協力したのだろう」と、さんざん恨まれてしまった。
 Kさんは、私が上京した頃、東京の海苔業界のことを親切に教えてくれたし、よく遊びもした恩人だから、協力を断れなかったのかも知れない。とうとうKさんは、本妻も病弱の息子さんも日本橋に置き去りにしたまま、浅草の彼女とお手々繋いで信州へ逃げてしまった。「私だけは、こんな所で死にたくない」というのだから、その心理が判らない。なんぼ止めても「止めてくれるな、宮永さん」というわけだ。
 それはさて置き、三月の大空襲の前の二月二十三日、今度は茅場町一帯が猛烈な焼夷弾空襲を受け、組合の茅場町支所もやられてしまった。
 その日の下町空襲は、それは猛烈なものだった。統制組合の茅場町支所もやられ、支所長をしていた千葉の堀口さんが大火傷を負った。支所には八人いたらしいが、私が飛んで行くと、堀口さんら四人が酷い火傷を負って茅場町の吉川病院に収容されている。私は一瞬、もうダメかと思った。焼夷弾の破片が身体中に食い込んでいて、血だらけの見るも無残な姿なのだ。医者は、その破片を取るだけで、注射も打たなければ、薬もつけない。薬が無いのだから仕方がない。みんなの苦しみようといったらなかった。
 とくに堀口さんが一番重傷だった。院長が「宮永さん、この人は今夜一晩持てば、或は助かるかも知れない」という。私は神に祈ったね。山本泰介さんにも頼んで、特別の治療をしてもらった甲斐があって、堀口さんは奇跡的に助かった。本当に良かったと思う。ところが、現場に戻ってみると、どうしても一人見当たらない。何しろ真っ暗闇だから、探すのに往生したが、ふと見ると、防火用水の水槽の中に人が逆さまに落ちていて、もう息は絶えている。爆風で吹き飛ばされたのだろう。とにかく、あの日の空襲は悲惨なものだった。部下の中から死傷者を出したのだから、大変なショックだった。
 それから幾らもしないうちに、あの三月十日の大空襲だ。今度は統制組合の深川支所がやられてしまった。柿沢さんの倉庫を支所にしていたが、この日の空襲は真夜中で、支所員が帰った後だったので幸いにも茅場町のような死傷者は出なかった。しかし、山本泰介さんに、支所の様子や組合員の店を見て来いといわれ、自転車で出掛けた。先ず、深川支所のある柿沢さんのところに行くと、もう丸焼けで、金庫だけが残っている。その前で、柿沢さんの娘さんが小さい子を抱いてうつ伏せに倒れている。死んでいるのだ。惨めだったね。自分は真っ黒に焼けてしまっているのだが、抱いている子供は焼けていない。思わず母性愛に打たれたね。柿沢さんご夫婦も防空壕で亡くなっていた。とにかくその惨状を見て、ぞっとすると同時に胸を衝かれたものだ。
 それから海苔屋さんを回って歩き、本所から山谷まで行ったが、焼け跡に避難先が書いてあると「ああ、ここの人は助かったんだなあ」と一安心したものだ。吉原の花魁(おいらん)が折り重なるように焼け死んでいるのも見たが、とにかく何処も目も当てられない地獄絵だった。一回りして帰ると海苔問屋のNさんがやって来て「宮永さん、大変だ。助けてくれ」という。
 Nさんがいうには、彼の二号さんが空襲で行方不明になってしまった。彼女を知っているのは、宮永さんしかいないから、一緒に探してくれ、というのだ。彼女は新大橋のちょっと先に囲われていた。明治座では大勢の人が避難して焼け死んだという話を聞いていたので、先ず明治座に行ってみたが、彼女は見当たらず、何と花岡さんの奥さんと、下のお子さん二人が亡くなっていることを聞いたのだ。花岡さんは海軍に入隊中で、今の社長の俊夫君と上のお嬢さんは信州に疎開していたので助かったのだ。
 さて、Nさんの二号さんは、依然見つからない。私は、浜町第三小学校に行ってみた。広い校庭には、性別も判らないほど真っ黒に焼け焦げた死体が山をなしている。顔の輪郭を見て「これは女だね。彼女に似てるじゃないか」というと、Nさんも「うん、似てはいるけど、とにかく真っ黒けだからなあ」という。その時、仏様をひっくり返して見れば良かったのだが、その日はそのままで帰った。しかし、どうも気になるので、翌日また行ってみた。そして、その仏さんを仰向けにすると、腰の下から蟇(がま)口が見える。中を開けると水晶の認印が入っており、名前が二号さんのものとピッタリだ。Nさんも間違いなく彼女だと断定した。係に聞くと、そこにある遺体は全部この校庭で火葬するという。そんなことをされては、誰の骨か判らなくなってしまうというので、Nさんは彼女の遺体をリヤカーに乗せて引き取ったわけだ。もと芸者さんだったけれど、可哀相だったね。
 最初、死体の山を見て、ゾーッと血の引く思いだったが、人間、慣れというものは恐ろしいもので、毎日そのような光景を見ているうちに段々に仏さんを見ても怖くなくなってしまった。ある夜、自転車で神田五軒町の立石さんの家に行く途中、車輪がガタンと音を立てた。見ると、女の人の死体に乗り上げている。仏さんを踏んづけてしまったのだ。それ以来、暗くなってから自転車で外出する時は、乗らずに自転車を担いで行くことにした。とにかく、本所、深川一帯が燃えた時は凄まじかった。ここ(日本橋室町)にいて炎で新聞が読めたもの。私は海苔問屋さんの安否を一通り調べると山本泰介さんに報告した。まだ大丈夫だろう、と疎開が遅れていた人たちは、三月十日の大空襲で一舐めにされてしまった。誰も、あんなに酷くやられるなど思っていなかったから……。とにかく悲惨なものだった。
 さしもの東京都心への空襲も、五月二十五日を最後に終わりを告げた。戦争末期の話だが、大森の海苔を日本橋の三菱倉庫まで運ぶことになり、足の達者なものばかりを集めてリヤカーや大八車で運んだ。それは、大変な量だったが、農林省には、その海苔は全部空襲で焼けてしまったと報告した。別に証拠があるわけではないし、帳簿もみんな焼けてしまっているしね。そうそう、焼けた話で思い出したが、当時の保険屋は酷かった。いくら沢山保険をかけていても、また、何社に加入していても、たった千五百円しか保険金を払ってくれない。組合員は大抵二社か三社の損害保険に加入しているので、私は千五百円しか払わないとは何事か、といって保険会社に掛け合う一方で、手を変え品を変えて二つも三つも保険金を受け取り、そのカネで土地や家屋を買った。とにかくみんな東京から逃げ出したい一心だから、安い売り物は沢山あった。組合員のためにも随分買って上げた。二千円も出せば立派な家が買えた。その家にも保険を掛け、焼けるとまた保険金を受け取って、別の家を買うのだ。方々が次々に焼けていくから、これの繰り返しだ。
 「宮永は狡い」という声もあったが、ちゃんと正当に掛けた保険金を受け取り、相対で交渉して土地や家屋を買い、おカネもきちんと払うのだから、何が狡いものか。さっき話した倉庫の海苔にしても、皆さん、バラックを建てるのにおカネが要るから、これを何とかしようと考えた。しかし、戦争が終わるまで待った。何しろ例の海苔は焼けてしまったことになっているし、売ればヤミ物資にされてしまうのだから……。そして、二十年の新海苔が僅かながら採れると、それと一緒にして特例価格で売った。公定価格が三十七円五十銭で、特例価格はそれより十五%ほど高かったが、しかし、それでは安いというので、農林省や物価庁と掛け合って、何回も価格改定をしてもらった。二か月くらいの間隔で、倍、倍と上げてもらった。お役所は、なかなか「ウン」とはいわなかったが、何でもいいから判を捺して下さいよ、といって強引に判をついてもらった。
 さらに、主食でもない海苔のようなものは、早く統制を解除してくれ、さもないと、いつまでも生産が上がらないと頼み込んだ。お役人は「どうせコメも無いんだから、海苔もいいじゃないか」などという。私はムッとして「われわれは海苔で食べているんだ。早く何とかしてくれ」といって頑張った。お役人は「網だって無いじゃないか」という。私は「網はスベ縄を編んで作る」といった。スベ縄とは、稲の穂を編んで作るのだが、海苔の芽付きはいい。その代わり、強い風が吹くと一遍に切れてしまう。
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