昭和初期の東京海苔問屋業界

 さて、このへんで話を本筋に戻そう。当時、朝鮮総督府の海苔指定商は二十二社あり、その殆どが日本の商社だったが、そのうち今でも残っているのは広島の国光さんと私だけになってしまった。六十年の歳月をしみじみ感じると同時に、事業を残すことが如何に大変なことかが判る。
 昭和六年を最後に、海苔生産シーズンの莞島生活にピリオドを打ち、その後は入札に行くだけになった。東京の商売が段々と忙しくなったからだ。
 さて、私が平中商店の東京駐在として上京した頃の東京海苔問屋業界の模様を話してみよう。当時、純然たる問屋は僅かに十一軒、その他は卸をやっていても、問屋組合には入れてもらえず、地区ごとに仲買組合を組織していた。当時の問屋の十一軒で今でも残っているのは、山本海苔店、山形屋、五所、小松、井上、柿沢の各店くらいなものだ。
 とにかく、当時の東京海苔問屋組合は閉鎖的で、幾ら頼んでも入れてくれないのだ。問屋は問屋、仲買は仲買だ、というわけだ。その頃の仲買は、神田組合と下谷組合の二つがあった。もちろん、大森の産地問屋組合はあったが…… 。神田系統はマル梅系の仲買、下谷組合はヤマ惣−今の山形屋とは違う山形屋−の系統の仲買、というように大別されていた。神田が四十数人、下谷が二十七、八人ではなかったろうか。
 ところが、この人たちは浜へ買いに行けないのだ。浜へ買いに行けるのは十一軒の問屋だけ。ここに問題があった。
 十一軒の問屋だけしか浜買いが出来ない。そのほか浜買いが出来るのは葛西の近海乾海苔組合と大森問屋だけ。いわゆる産地問屋だ。だから、東京の仲買連中は、嫌でも十一軒の問屋から買わざるを得ないわけだ。明治初期からの既得権益のようなものだった。
 問屋は海苔を買う時に、生産者に対しては六分の切りを取り、そのうち三分を仲買に返すわけだ。つまり、百円の海苔を問屋が買ったとすると、生産者には九十四円しか渡さない。その六円のうち三円だけを仲買に返す、つまり九十七円におまけしてくれるというわけだ。三分のピンハネは、もう絶対権力だった。
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