朝鮮海苔に青春を賭ける

 そのうちだんだんと商売の面白さが分かってくる。そんな時、主人が朝鮮へ行かないかという。大阪は大判、東京は小判だが、当時朝鮮ものは小判が少ないから、何とかして朝鮮海苔の小判を増やすよう総監府の水産部に働きかけをしようというわけだ。お前、東京にいるのだから農林省とも話し合えという。そして、紹介状をもらい、初めて朝鮮に渡った。昭和三年暮のことだ。
 そして、翌昭和四年の生産期から海苔の枠を持って行って本格的な指導を始めた。葭簀(よしず)も持って行ったが当時、朝鮮は竹簀や萱簀だからいいものができるわけがない。向こうへ行ってみると、洛東江などの河原には葭がたくさん生えている。それを刈って簀を作らせた。
 当時、莞島地区ではすでに海苔養殖は盛んに行われていたが、大阪の連中が大判でないと自分の商売が減るといって、太巻き用の大判海苔ばかりを作らせていたわけだ。そこへ小判の海苔の指導に行ったものだから、「総督府にまで行って、小判の普及を運動している。あの宮永のチビ怪しからん」というわけだ。私は「大消費地の東京に合う小判にすれば、朝鮮海苔の消費はどんどん増える」と説いて回った。「海苔の全生産量は内地産、朝鮮産合わせて十億枚だったが、そのうち八割が東京で消費されている。その東京に合った海苔を作らなければダメだ」と。
 その頃の朝鮮海苔の生産量はせいぜい三億枚か四億枚だったのだが、私が行くと一ぺんに五億枚に増えた。小判をどんどん作らせたから……。そして、その全量が内地に移出されていた。とにかく小判増産を一生懸命督励したものだ。
 朝鮮でも海苔箱には困った。何しろ南鮮には木材が乏しく、鴨緑江材しかない。それじゃあダメだというので、和歌山の熊野製材から箱を作って送らせた。
 朝鮮での海苔箱の問題は解決したが、次は箱をくくる縄の無駄がある。箱に積むと縄の分だけ嵩ばり、これがバカにならない。船は容積トンだから……。そこで、箱をくくるのに帯鉄を使い、輸送の合理化に大いに役立った。
 さて、このへんで昭和初期の朝鮮海苔の生産、販売状況について話をしてみよう。主産地は南鮮の全羅南道で、漁業組合は四つあった。莞島(高興、長興、康津、莞島、北平の各地区)、麗水(麗水郡、光陽郡)、釜山(洛東江一円)木浦(務安郡、珍島郡)の四漁協で、このほか慶尚南道の河東にも漁協があったが小規模だった。これらの漁協で養殖された海苔は、全て朝鮮総督府指定商だけに売られた。指定商は当初二十社だったが、その後二十二社になった。朝鮮の商社は三、四社で、あとは全部日本の問屋だった。
 私は、昭和三年暮に初めて朝鮮に渡り、四、五、六年と三年間、海苔生産期を現地で過ごした。その後も数年、入札に訪れているから、朝鮮海苔とのお付き合いは誠に深いものがある。喜びも悲しみもあったが、私の青春時代と朝鮮海苔とは切っても切れない関係にあるのだ。
 その頃、朝鮮の海苔産地に行くには、今では想像もつかないような苦労があった。どこに行くにもすべて船に頼るほかなかった。まず、下関から関釜連絡船で釜山に行き、そこで夜行の麗水行きの船に乗り換える。当時の船はせいぜい十ノットくらいだから物凄く時間がかかる。麗水から莞島へ行くのにまた六時間ほどかかるのだ。しかも莞島には桟橋がないから沖に船が着くとサンパン(はしけ)で岸まで行く。麗水から木浦へ行く船などはポンポン蒸気だ。どの船もそれは汚くて、シラミなんかウヨウヨしている。痒いなどといってはいられない。関麗連絡船(下関−麗水間直行便)が航行するようになったのは昭和八年だから、それまでは、今いったような難儀な思いをしていたのだ。
 私は、生産シーズン中はずっと莞島を拠点にして各浜を走り回った。他の人は莞島に二軒ある旅館に泊まっていたが、私は中野商店の出張所に寝泊まりしていた。尾本さんや宮崎さん、中村さん、中野さんの弟の藤助さんらと一緒だった。その頃、現地の産地入札のほかに、東京でも朝鮮海苔の入札が始まった。日本橋に全南(全羅南道)漁連の出張所ができ、宣伝のために少しずつだが入札を始めた。
 ここで思い出すのは朴魯吉さんのことだ。戦後の韓国海苔輸入で活躍した人だから、ご存じの方も多いだろう。朴さんは、もう昭和の初期から海苔に携わり、私も随分と助けてもらった。朝鮮の風俗、習慣など実に親切に教えてくれた。利口な人で、代用教員の免状をもったインテリだし、日本語も上手だった。金容安という財闘の番頭をしていた。金さんは大阪の田中次松さんのところへ専ら海苔を売っていた人だ。朴さんは目先の利く人だから、間もなく金さんのところをやめて、全南海苔販売組合の副理事になり、後に朝鮮海苔販売株式会社を作って独立した人で、戦前、戦後を通じて日本の海苔業界とは縁の深い人だ。朴さんは大変な酒豪で、二人で実によく呑んだものだ。マッカリという朝鮮のお酒ね。米で作った、いわばドブロクだ。とにかく海苔シーズンは真冬だから寒いこと寒いこと。呑まずにはいられない。朝からマッカリを一升も呑む。それもご飯も食べずにニンニクや朝鮮にんじんを噛じりながらだ。
 酒の話が出たついでに、ちょっと脱線するけれど、私と酒の付き合いを話してみよう。私が酒を初めて呑んだのが十六歳の時。熊本へ入札に行って藷焼酎をふんだんに呑まされた。家中がグルグル回る、足腰は立たない。それでも博多まで帰らないと上役に叱られる。やっとの思いで夜遅く汽車に乗って辿り着いたというわけだ。これが酒との出会い、以来実によく呑んだと我ながら感心する。まぁ、一番呑んだのが五升かな。
 忘れもしない、大阪から東京に出る時、先輩達にお別れの挨拶に行ったのだが、伊加佐商店の青地泰三さんが「清吉、お前はよく呑むようだけれど、酒は呑んでも、酒に呑まれちゃいけないよ」といった。この言葉は忘れられない。もう一人、山本海苔店の相談役で、全国海苔問屋協同組合の初代会長だった山本泰介さん、あの方も酒豪だったが、酒席では決して膝を崩さず、お名前のように泰然自若、いささかも乱れることがなかった。私が山本さんから会長職を引き継ぐ折り、山本さんも「いくら呑んでも崩れたり、酒に呑まれてはいけないよ」というような意味のことを諭された。これも思い出に残っている。
 話は横道に外れたが、外れついでに、朝鮮時代の珍談・奇談を紹介しよう。何しろ若かったから……。まず、船の事故で死にかかったことが二回ある。一度は三、四人のグループで浜回りをやった時のことだ。本船を降り、はしけに乗り移ったが、吹雪と強風とシケではしけが転覆、皆海に放り出されてしまった。
 吹雪の海に投げ出された私達のうち三人は何とか泳げるが、現地の金青年はまるっきりカナヅチだ。波間に浮き沈みする金さんは「アイゴウ、アイゴウ」と泣き叫ぶ。その時、私は「あっ、しまった!」と思った。というのは、これから買い付ける海苔の代金十万円が入ったトランクが金さん同様に浮き沈みしているではないか。泳げる三人は金さんとトランクを助けなければならない。昭和初年の十万円がいかに大金かはお察しがつくだろう。
 三人は必死だったが、泳げるといったところで、吹雪でシケの海は凍える冷たさだし、皆分厚いオーバーを着ているから身体の自由が利かない。それでも金さんとトランクを抱えて、やっとのことで背が立つところまで泳ぎ着いた。岸で私達を出迎えていた人達もすぐ異変に気づいて助けに来てくれた。海岸では焚き火をして温めてくれた。全く生きた心地はせず、地獄から戻ってきたような気がしたものだ。
 二度目も浜回りのときのことだ。やはり海が荒れていて、物凄く寒い夜だった。小さな客船に乗って沖を航行していると突然、船が暗礁に乗り上げてしまった。船底に大きな穴が開いて、見る見るうちに海水が入ってくる。何しろ真夜中なので、辺り一面真っ暗闇。もうダメかと観念したが、海水が首まできた時、海岸にいた漁民が見つけて、すぐに救助に来てくれ、一命を救われた。この二度にわたる遭難の恐ろしさは今思い出してもゾッとする。
 忘れられない失敗談を一つ、浜の入札が終わり、料亭で一杯やっていたが、気がついてみると、莞島行きの船は出航時間が迫っている。慌てて車を呼び、港に駆けつけたのだが、岸壁には船が二艘並んでいる。私は酔っていたし、慌ててもいたので行く先も確かめずに飛び乗ってしまった。当時、私達指定商は特等船室の無料乗船券を総監府から与えられていたので、すぐに船室に行って寝台に潜り込んだ。酔いと疲れとでたちまち白河夜船。
 翌朝、目が覚めて驚いた。船は莞島とは正反対の遥か北方、忠清南道の港に入港していたのだ。一緒にいった連中はちゃんと莞島行きの船に乗ったが、宮永が行方不明になったと大騒ぎしたそうである。とにかく、まだ独身時代、しかも一人でしたい放題、商売も夢中でやったが、酒や遊びもまた一生懸命に励んだものだ。先にも話したが、朝鮮と朝鮮海苔こそは、わが青春とは絶対に切り離せないものだった。六十年を経た今でも、その頃の日々、人々、光景が走馬燈のように私の瞼をかけ巡るのだ。思い出というものは、歳月を経るにつれて鮮やかになってくるものなのか。
 私の莞島時代には、もう一つ忘れ難い出来事がある。確か昭和五年のことだったと思うが、莞島の外れにある永豊という漁場が大変な不作になってしまった。その浜は、海苔だけで生計を立ている貧しい漁村だった。指定商組合は、その窮状を見るに見兼ねて、稗、粟を各五十石、麦を五十俵、救援物資として贈ったのだ。その贈呈役となって私は永豊に行った。
 村長以下村民総出で出迎えてくれたが、彼らの喜びと感謝の念は大変なものだった。小さな私の身体が、その時だけは我ながら大きく見えたほどだった。さてそれからが問題だ。村長が「村民を救ってくれたのに、この貧乏な村ではお返しするものとてない。しかし、このままでは気が済まない。せめてものお礼に村の娘を差し上げたい」という。私は「飛んでもないことだ」と固くお断りして莞島に帰った。
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