伊勢湾台風の被害を見舞う

 昭和三十四年九月二十六日、愛知、三重など東海地方を襲った伊勢湾台風は、死者・行方不明五千二百余人を出す大災害となったが、この災害に、私は人生最大といっても良いくらいの思い出を持っている。
 当時の主力海苔漁場のこの地域一帯が大被害を受けたと聞いて、当時全国海苔問屋組合連合会の専務理事であり、東京組合の副理事長でもあった私は、何とか救済の手を差し伸べたいと思って、当時の連合会会長の山本泰介さんに相談した。その結果、現地の問屋さんたちは印籠箱に困っているに違いない、東京組合として出来るだけ多くの印籠箱を集めて現地へ贈ろうということにした。その上で、取り敢えず現地の様子を見て来ようということで、台風の翌々日の二十八日に山本会長と被災地に乗り込んだ。
 先ず、豊橋に入り、三河の吉田に行ったが、それは酷い被害で、これから先へはとても行けないという。ゴム長を履き、首まであるゴム合羽を着ていたが、熱田まで来てニッチもサッチもいかなくなってしまった。挙げ句の果てに知多・横須賀の小浅商事まで辿り着いた。飲み水も無いというので、どこからか奇麗な水を持ってきてくれ、それを沸かしてお茶をいれてくれた。喉が乾いていたから、あのお茶の味は今も忘れられない。知多の人たちにお見舞いの言葉を述べ、その足で名古屋に出て、尾河さんを訪ねた。
 尾河さんが「これからどこへ行くのか」と聞くので、「桑名に行きたい」と答えると、尾河さんは「冗談じゃない。桑名へなんか行けるものか。どうしても行くのならまず大垣に出て、そこから近鉄のローカル線の養老線に乗って行けば行けるかも知れない」という。山本さんと私は「よし、それで行こう」といって大垣から電車に乗った。途中何度も止まりながら、やっと桑名に着いた。まず、荒木さんを訪ねようと苦労して辿り着いた。荒木さんは「まず、城南地区から見てくれ」という。城南に行って堤防の上から眺めると、家という家全部が二階の庇(ひさし)まで水に漬かって、辺り一面泥水の海だ。鍋田地区も同じだという。
 荒木さんに救援物資は何が良いか聞くと、荒木さんは「生産者も問屋も、海苔をやらなければならないのだから、やはり箱が良いだろう。この冬はきっと豊漁だと思う。宮永さんが音頭をとって箱を集めてくれないか」という。私は「こんなに一面泥海になって、果たしてこの冬、海苔が採れるのだろうか」と思った。荒木さんは「この辺一帯の漁民は、海苔無くしては生きて行けない。大変な被害を受けたが、必ずや一致結束して立ち上がりますよ。それにつけても、宮永さん、一つ号令を掛けて海苔箱を集めて下さい。あなたならきっと出来るでしょう。是非お願いします」という。私は、その意気に感じて帰京後全力で海苔箱集めに取り掛かった。
 荒木さんの予言は的中した。伊勢湾台風の猛威に叩きのめされたはずの三重も愛知も、台風が去って僅か二か月余しか経たない三十四年暮の海苔は大豊作になった。実に意外だった。資材関係は、われわれが海苔箱を救援する、漁民には全国の漁連はもちろん、水産庁や県当局も全面支援したので、漁民たちも奮起したのだと思う。三重にある海苔網の大手工場も、漁期に間に合わせるようにフル稼働した。漁民の不屈の精神と頑張りがあったのはもちろんだが、周囲の支援と協力があってこそ三十四年の豊作がもたらされたのだと思う。その年の豊作の恩恵で、流された家を建て直した漁民も多かった。禍を転じて福と為す気力が漁民たちにあったのだ。
 その年の海苔は豊作だけでなく、品質もまた素晴らしかった。永年堆積していたヘドロやゴミが台風のお蔭ですっかり洗い流されたのだから……。伊勢湾全体、とくに桑名地区の海苔の出来は凄かった。質・量とも空前だった。だから、山本さんを始め、東京の連中は競って値を良く買い付けたものだ。とにかく味と甘みのある素晴らしい海苔だった。結局、伊勢湾の海苔の大豊作と高品質は、その一年だけで終わってしまったが、海が奇麗になったことと、漁民が海苔で生き抜こうという気概が相乗効果を発揮したものだと思う。
 伊勢湾台風の翌々日に、山本泰介さんと私が愛知、三重に見舞いに行くとともに、印籠箱の救援に全力を尽くし、大変に感謝されたことは、私にとって忘れられない思い出だ。救援の印籠箱は、私が率先して一番たくさん出したが、それが大豊作で見事に役立てられたことも二重の喜びだった。山本さんも「君が号令を掛けてくれたからこそだ」と喜んで下さり、荒木さんや白羽さんからも大いに感謝されたものだ。
 とにかく連合会の会長と専務理事が、台風の翌々日に直接被災地を見舞ってくれたというので、問屋も漁民も至る所で涙を流さんばかりに感謝感激されたことは、即、私にとっても生涯最大の感激であり、今でも被害者たちが差し出した握手の手の温くもりが残っているような思いだ。
 伊勢湾の海苔が台風直後の一年きりの大豊作に終わってしまったのは、翌年から伊勢湾の護岸、防潮堤工事が始まり、海苔養殖どころの話ではなくなってしまったからだ。何しろ、五千人以上の犠牲者を出しただけに、国を挙げての突貫工事だった。結局、工事後の海苔漁場は、桑名地区と、新たに開拓された中・南勢地区、それに松崎など青から黒への転作地域だけになってしまった。
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