東京組合蠣殻町へ移る

 元・葛浦さんの店の跡の組合事務所では、全海苔と協同で盛んに市を開いた。二十八年になると、蠣殻町に土地の売り物があるという話を聞いた。今の事務所が狭くなり、もうちょっと広いところが欲しい、と思っていた矢先だった。長谷川君の店の隣りの土地が売りに出ているという。行って見ると、自動車の修理工場の跡地で、潰れそうな建物が残っている。そこが良かろうという話になったが、それを買うには今の事務所を売らなければならない。買い手があるだろうかと思って心配していると、上野の三五屋さんの弟がパチンコ屋をやっていて儲けているという話を聞いた。彼は即座に「よし、買ってやろう」といった。そこでキャバレーをやるという。事実、彼は後にそこでキャバレー兼喫茶店を始めた。
 三五屋の弟さんと事務所の土地の売買契約は出来たが、さて、蠣殻町に新事務所を建てるとなると、増資をしなければならない。私は増資を提案したが、最初に金額を吹っかけたものだから、また、怒られてしまった。
 この機会に組合員を篩(ふるい)に掛けてしまおうと思ったのも事実だったが、そんな酷いことはするなといわれた。私は、睦会や、城北でも松葉町小善といった大手だけ五十軒か三十軒でやろうじゃないかと花岡君らと相談し、増資に応じるものは名乗りを上げるようにいった。結局、増資は一口一万円に落ち着いたが、私の最初の目論見は何と五万円だった。五万円反対派の言い分は、そんな大金は一度には出せない。まず一万円、会館が出来たら一万円というようにぽつぽつと順序を踏んで行こうというものだったが、組合の事業を盛大にやろうというのに、一万円ぽっちのカネでは多寡が知れている、というのが私の考えだった。
 蠣殻町の土地は、確か当時坪八万円だったと思う。七十坪足らずだから五百六十万円程度だ。旧事務所の売却代金が八百万円だったから、土地だけはそれで買えるが、上にビルを建てなければならない。当時の面白い話だが、蠣殻町の土地の裏に私道の路地がある。建蔽率の関係で、その土地がどうしても欲しい。持ち主を調べたら水天宮の一帯は有馬の殿様の土地だ。 交渉に行ったが、もちろん殿様が出てくるわけではなく、執事長なる人が会ってくれた。それが威張っていて、お邸へ何度通ったか判らない。有馬頼寧伯の時代だったが、執事といえば下々でいう差配なので、その執事長様を差配といったらえらく怒られて「言葉を慎め!」という。
 何回もお邸に通って、もう嫌になったので、花岡君に「今度は君が行ってくれ」といったら、彼は「私が行ったら、すぐに喧嘩になってしまう」といった。でも、結局、判を捺して貰って来たのは彼だった。何と、三十年まで掛かってしまった。新しい組合ビルは、増資の出資金と旧事務所の売却代金では足りず、銀行から借金をして賄った。やっと苦労して資金のメドはついたが、そこでまた厄介なことが持ち上がってしまった。島藤建設の見積りが間違っていたわけではないのだが、蠣殻町の地盤が悪く、杭打ちすると、何の抵抗もなく、杭がすとんと入ってしまう。まるで糠に釘だ。何回も打ち直したり、数を打ったりしているうちに、工期は伸びる、工費は嵩むという結果になってしまった。最初の工程では、杭を三十本も打てば十分だというのに、結果は六十八本も打ち込んだのにダメだという。
 このように、蠣殻町の新組合会館の工事は、地盤の軟弱から予想以上の難工事になってしまった。工事費がどんどん増え、それにつれて借金も増えていく。着工してから二年もかかってしまった。だから八百万円で売った旧事務所の地価は、新会館が出来上がったときには一千五百万円にもなっている。しかし、八百万円で売買契約してしまっているのだから、どうしようもない。
 有馬の殿様との交渉といい、工事の延引といい、苦労した。そういえば、蠣殻町の土地を選ぶ時にあそこへ移ったら栄えるだろうかと、易者に占ってもらったことがあった。その易者曰く「この一件はなかなか手間がかかるね。だけど、山本さんや宮永さんのところから見て蠣殻町は辰巳の方角だから、将来必ず良くなるよ。ただ、あのへんは土地が軟らかいから手間取るね」と。結果はその易者のいう通りになった。最初はそんなこと分かるものかといってバカにしたのだけれども……。
 その頃の私は韓国海苔で大損するわ、倉庫が貰い火で焼けるわ、運勢は下向きだったから、易者に見てもらう気になったのだ。その易者には韓国海苔の時にも「注意しないと危ないよ」と注意されたことがあった。
 蠣殻町の旧会館は、そんなわけで予算以上のカネがかかってしまったが、それでも土地代も入れて一千七百万円くらいだった。今から見ると嘘のような金額だけれど……。当時、あの土地は坪八万円だったが、それでも宮永は高い買い物をしたといわれた。それが今じゃあ坪4千万円だ。組合は大変な財産を残したことになる。ともかく、難航しながらも完成披露に漕ぎ着けたのは昭和三十年秋のことだ。
 ここで東京組合での入札の話をするが、本町の組合事務所当時から入札が盛んになり、とくに全海苔が力をつけてきてからは一層盛んになった。全海苔の庄司会長とは韓国海苔の輸入をめぐって喧嘩をしながらも、全海苔は入札する場所がなかったから東京組合の事務所を使わせた。その頃の全漁連は海苔には一切関係なく、漁連といえば全海苔のことだった。全漁連がボツボツ海苔をやろうかといい出したのは、御正幸親さんが課長になってからだから三十二、三年のことだ。彼が蠣殻町の組合に来て「東京組合と提携して海苔をやりたい」といってきた。それに対し私は「お宅はまだ力が弱い。まず自分の方を固めてからにしなさい。とにかく、しっかりおやりなさい。体制を固め、力がついてきてから考えましょう」といった。
 当時の海苔産地の漁協は、全てが全海苔に入っていたわけではない。加盟を奨めてはいたが、中にはいうことを聞かず地元で入札を続けていた漁協もあった。しかし、結局はほとんどの漁協が全海苔に入った。
 もっとも、全海苔には入っても入札は別だから、各県各浜ごとに入札をやっていたが、海苔を全海苔に出して下さいと働きかけたわけだ。その後、前にもいったように、庄司会長の政治力で韓国海苔の輸入を制限付きで認める代わりに三%の生産奨励金なるものを全海苔が取得することになった。それがあるからといって入会を勧誘したようだね。その3%で芝・伊皿子の全海苔会館も作った。借地だそうだけれど、大変な財産だ。あれだけの身代を残したんだから、私より庄司君の方が上手だったかも知れない。私から取っていったんだ。
 今考えると生産奨励金なんておかしなものだが、何しろ役所が払ってやれという。川島正次郎さんたちなど随分多くの人が仲に入った。三%を呑んだので、宮永清はバカだとさんざんいわれた。しかし、私には韓国海苔は自分が切り拓いたのだという執念がある。韓国海苔を入れたい一心だ。向こうはそれに付け込んできたのだ。
 当時の韓国海苔は平均一枚三円くらいだったから、一億枚というと三億円、その三%だから九百万円だ。一枚四円の年もあった。とにかく毎年毎年、座っていて一千万円近いカネが入ってくる。四十二年に小浅の白羽さんが韓国海苔需給調整協議会を作るまで三%拠出は続いた。
 とにかく庄司会長とは韓国海苔の輸入をめぐって、丁々発止とよく渡り合ったものだが、今思い出すと懐かしい。彼の直情さと頭の良さ、気配りには教えられることが多かった。人生というものはいろいろな人との出会い、様々な出来事に遭遇してだんだんと成長していくものだ。人様に教えられてこそ、それぞれの人格が形成されていくものなのだとつくづく思う。
 私も、若い頃には怖いもの知らずで、随分したい放題のこともしてきたが、商売上はもちろん、いろいろな面でいろいろな方とお付き合いし、また様々な経験を経て、やはり人間は謙虚に他人の意見を聞き、それを取り入れることがいかに大切であるかを知った。その意味で私のライフワークとしての韓国海苔は私の人生に損得を離れた大きな影響を与えたと信じている。喜びも苦しみも味わったけれど、それが人生というものではないかと思う。
 韓国海苔輸入問屋組合は、われわれの組合のほかに第二、第三の両組合が出来たことは前にも述べたが、まず姫路乾物の金中さん(故勇太郎氏)が第二組合を作り、続いて東京の三五屋の清水さん(故五平氏)が第三組合を作った。それからは値決めをしたら、その人たちにも荷物を分けなければならないのだが、その配分方法をめぐってすったもんだが始まった。
 最初は一組七対二組三という配分比率だったが、その後三組が出来たので、まず一組五対二、三組合わせて五ではどうかということで話し合いを始めたが、解決しない。そこで、大乾の村瀬さん(故利一氏)が妥協案を出した。村瀬さんは頭のキレる人だったから、十三を分けて一組七対二、三組合計六ではどうかという案だ。村瀬さんがいうには、十三を分母にすると配分に都合がいいそうだ。しかし、それもダメ、とどの詰まりは六・五対六・五で決着した。
 何のことはない十三分の六・五はパーセンテージからいけば、当初案の五対五と全く同じなのだが、今考えてみると村瀬さんは配分がしやすいという理由もあったろうが、一組七という当初の数字にこだわっていたのではないだろうか。それが削られて六・五という半端な数字になってしまったのだろうと思う。
 私は一組がそんな少ない数字では怪しからん、蹴ってしまえといったが、温厚な村瀬さんはうまくまとめるにはこれしかないというので、最終的にはそうなった。とにかく決着がつくまでには随分時間がかかった。三組が出来た昭和三十四年のことだ。三組はメンバーが多かったので配分率では実に頑張った。
 われわれ一組も「分けてやる」というような気持ちでいたのだが、それが一組は横暴だ、というようにとられたのだと思う。六・五対六・五の方式は四十年まで続いた。輸入量は三十三年の国内産不作の年に二億五千万枚入ったのを例外として、ずっと一億枚に抑えられていたから、これを三つの組合で分けたら微々たるものだ。この間、輸入商社や韓国側との折衝がうまくいかないことも度々あって、随分苦労したものだ。折角決めたことを守らない裏切り者などが出たり、カネも無いのに韓国側に買ってやると大見栄を切るものがいたり、さんざん尻拭いをさせられたものだ。その頃の値決めは一組に任せてもらうことにしていた。皆が集まっても決まらないからだ。もちろん、二、三組の代表だけ参加させて会合をしたり、結果報告をしたりしたが……。二組の茅野さん、増辰さんなどは非常に熱心だったが、細かいことは全部私に任せてくれた。
 韓国海苔の輸入は昭和三十四年に第三組合ができ、以来四十年まで一組六・五、二組と三組合わせて六・五という配分比率で行われたが、毎年のように紆余曲折を繰り返した。輸入代金五億円を東食で借りたが、肝心の商談がもつれて長引いた。金利だってパカにならないが、誰も負担してくれない。結局は私が背負う羽目になったこともある。もっとも東食も同情していくらかはまけてくれたが……。
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