人生観を変えた昭和二十七年、一億円の大損

 私は、二十六年の韓国海苔が朝鮮動乱の余波で、予定の半分しか輸入出来なかったので大儲けをしたが、二十七年には大損をしてしまった。当時のカネで一億円だから実に痛かった。商社が集まって相談を始めた。東食のLCは銀行が組まないということになったので代わりに伊藤忠が乗り出した。
 さて、二十七年の大損の経緯を説明しよう。その年はサンプルによる入札をやったが、三井物産と東食の間に諍いがあって、サンプルと現品の間に大きな違いがあったのに、クレームが付けられなかった。韓国の輸出検査合格品だというのに、中にいろいろな等級のものが混入している。前年のような品物が入ってくると思ったから入札したのに、入ってきた品物は全然違う。韓国側が意識的にそういうことをしたのだろう。
 引き取ってから判ったのだからクレームのつけようもないし、LCを開設してしまったら、もう負けなのだ。文句をいっても、あなたはLCを開設しているのだから代金を支払う義務がある、の一点張りだ。あの頃は、役所も商社も弱かった。今だったらそんなことは通らない。二億六千万枚も買った海苔が全部サンプルと違う。薄いのが半分以上も入っている。インチキも甚だしい。全南漁連の東京事務所の連中は逃げ帰ってしまっている。
 とにかく半分は半値で叩き売るほかなかった。まさか、そんなことをやるとは思わなかった。しかも、その海苔を持って来た連中というのが、昔、私が海苔のことを教えて上げた人たちだ。しかも「検査品の良いものばかり持って来ました。大変お世話になっているので、精々儲けて下さい」などとうまいことをいう。まさか裏切られるとは思ってもみなかった。当時、一億円の損といえば物凄い額だ。おまけにIさんやHさんの損失まで私が被った。みんな「宮永は潰れる」といっていた。その時も私がLCを開設し、東食が裏判を捺していた。
 私は手形を持って、三井銀行といろいろ折衝をした。石河幹武という専務とその下の木村という常務が「よくこれだけ大きな借金をして、天下を大手振って歩けるな」というようなことをいう。私は「命に賭けても、この借金は払う」と断言した。ところが、相手は「家屋敷全部カタに出せ」という。私はムッとして「冗談じゃない」と思った。すると、相手は、私が差し出した一年先の手形を「こんなもん、受け取れるかい」といって突き返してきた。私は「そうか。要らないのか」というが早いか、その手形を木村常務の目の前でビリビリと破いてしまった。だから助かったのだ。もし、その時、手形を取られてしまっていたら、やいのやいのと催促され通しだったろう。相手は私が手形を破き始めると、慌てて「こら、それ、破っちゃいかん」という。私は「だって、たった今、そんなもの要らん、といったじゃないか」といってやった。
 二十七年の韓国海苔輸入でサンプルとは全く違う二億六千万枚の粗悪品を掴まされ、一億円という莫大な損害を蒙ってしまった私は、結局時間をかけて返済することで話をつけた。一億円の借金を完済したのが三十一年のことだから実に足掛け五年もかかったわけで、随分と苦労したものだ。手形は切らなかったが、当時、私が筆頭株主だった東食の株券を四十八万株ほど取られてしまった。当時の東食の株価は三百二十円位だったから、一億五千万ほどになる。今、振り返ると、よく倒産しなかったものだとつくづく思う。だが、この一件があってから、私は人に頭を下げるということを知った。損害は痛かったけれど、私にとっては得難い試練だったし、その後の私の人生の転換期だったと思う。あの損をしていなかったら、もっと大きな損をしていただろうと思う。
 その頃だった。東食の力石さんが「どうだ。宮永君、大豆をやってみないか」といってくれた。アメリカからの輸入大豆をやれ、というのだが、どうも私はやる気になれなかった。大豆は海苔よりも怖い。それに、海苔なら長年身についた商売だから、万一失敗しても、取り返せる自信があるが、大豆はそうはいかないだろうと思って、折角の話だがお断りした。東食は業績不振で、無配に転落していた頃なので、何とか挽回しようと、私に随分と大豆をやれと勧めたのだった。宮永ならうまくやるだろうと思ったのだろうが、しかし、やらなくて良かった。当時、大豆に手を出した連中は、みんな大損をしてしまった。私はその時、大豆などに手を出さず、海苔一本を貫いたからこそ借金も返せたのだと思う。
 それはともかく、二十七年の韓国海苔での大損は、私の人生観を根底から変えた。それまでは、自分の力を過信していた。誰が来ようと、何といおうと、私は強かったのだ。それまで余りにも順調に来過ぎていたと思う。コンクリートに頭をぶつけて初めて気が付いたとでもいうのだろうか。人間、余り偉くなり過ぎて、慢心したら終いだ。それまでは、矢でも鉄砲でも持って来い、という気で、事実、何をやっても不思議なくらいに儲かってきた。とにかく二十七年の事故は、私の人生を変えたし、人間的にも大きく成長する転機になったわけだ。あの一件がなかったら、今日の私は無い、とさえ思っている。もちろん大変な苦労はしたがね。
 このように、二十七年の韓国海苔輸入でとんでもない粗悪品を掴まされ、一億円に上る大損害を蒙った私は、それから数年、返済に全力を尽くした。しかし、大損をしたということでLCを組めなくなってしまった。これでは韓国海苔輸入に支障を来たすというので、伊藤忠が窓口になって、入札制度でやることになった。ここで初めてカーゴレシート条件が採用され、以後、韓国海苔はカーゴレシート条件で輸入されようになった。私は、二十七年の出来事では東食にも迷惑を掛けたから、韓国側に対しても一生懸命新しい方式を説得し「この方式が嫌なら、もう今後海苔は持ってくるな」とまでいった。
 カーゴレシート条件なら、売り上げてから支払うので、伊藤忠も承知してくれ、韓国側も結局は私の説得に応じてくれた。そこで、受け入れ側として、入札商の組織を作らなければ、ということになり、韓国海苔輸入問屋組合(いわゆる一組)を結成し、私が初代理事長に就任した。二十七年のことで、最初は、組合員は二十五、六社の任意組合だった。
 入札をスムーズに行うにはどうしたらいいか、私は尾河治助さんや佐野商店の高木保次さんらと相談して輸入問屋組合にグループを作ることを決めた。一社だけで応札するのは大変だし怪我も大きい。グループを作ればみんな仲よくやれるし危険分散にもなると考えたからだ。いろいろ相談した結果、韓国海苔は大阪で見付けするから、グループのトップは大阪の人に頼もうということになり、マル本組(池内庄藏さん)、ヤマツ組(田中次松さん)、大乾組(村瀬利一さん)の三グループが出来上がった。このグループは、二十七年の輸入問屋組合結成と同時に作られ、その後、入札が終わるまでずっと機能を果たした。
 輸入組合結成初年度の二十七年には三億五千万枚が輸入された。私は輸入問屋組合と三グループが発足して、一応の責任を果たしたと思ったので、理事長の職を一期だけ勤めて辞任し、後任には年長者ということで神戸乾物の乾源之介さんが就任した。
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