終戦・海苔生産再開と東食設立

 長く激しい戦争が終わって、スベ縄による海苔生産も始まった。さきにもいったが、スベ縄は芽付きはいいが、風には弱く、一年しか保たない。そうこうするうちに、東京食品(現・東食)を設立するという話が持ち上がった。五味真喜治さん(後の京浜水産工業社長)は三井物産の嘱託をやっていたが、彼が海苔屋に戻り、第一、第二復員局に納める海苔佃煮や食品の会社を設立するために山本泰介さんを担ぎ出そうとした。しかし、泰介さんは中央区長に出ることになっていたので、五味さんは葛浦さんや岩崎さんに相談した。
 その結果、宮永に話をしようということになったらしい。「宮永は、今、統制組合の筆頭常務だから無理だろう」「いや、あの人なら何でもやってくれるだろう」というような話があったようだが、結局「宮永は、まだ公職にあるから表には出さないで、誰かをダミーにして実質的には宮永にやってもらおう」ということになったようだ。そして、五味さんと龍泉寺の小善さんとで東京食品の設立話が進んだ。そして、社長は山本泰介さんの了解を得て、山本徳治郎さんに就任してもらった。そんな経緯だから東京食品の生みの親は五味さんといってもいいだろう。彼は常務として活躍したが、やがて山本徳治郎さんや岩崎さん、そして私らの協力によって大森に京浜水産工業を興した。理想家肌の好人物だったが、商売はあまり得手ではなかったようだ。
 ここでちょっと戦争中の話に戻るが、当時の軍納の海苔は海軍用は問屋から三井物産を通じて納められていたが、陸軍向けは私が一手に引き受けて糧抹廠に納入していた。私が全国から集めてきた海苔を陸軍に目方で売るのだが莫大な量だった。他の人が落札しても、品物は全て私が集荷し、納入したものだ。海苔を目方で売るなど可笑しな話だが、百枚で大体六十匁から七十匁だった。また、軍には特殊な海苔も納入した。今の北朝鮮の黄海道の青芽の海苔だ。韓国海苔は赤芽だが、どういうわけか陸軍も海軍も青芽の海苔を喜んだものだ。黄海道・仁川の北のオウシン半島付近で盛んに海苔が採れていたが、節分を過ぎないと採れない。凍ってしまうのだ。潮が引くと、海苔がコチコチに凍って、乾かすとボロボロになってしまう。ところが、節分を過ぎると凍らなくなる。随分研究したものだ。
 青芽の海苔は実に焼き色が良いし、厚すきにすると目方も付く。関東軍などは、随分北朝鮮の海苔を買ってくれたが、握り飯や海苔巻にしたのだろう。軍納品は、梱包もしっかりとハンダ付けにして納入したものだ。
 東京食品設立当時の話に戻そう。五味真喜治さんの発案で、山本徳治郎さんを社長にしてスタートを切ることになった東京食品は、そのスタッフをどうするか、いろいろと相談した結果、三井物産の力石寿武さんが同社食料部を中心とした五十人の人たちを選んだ。しかし、当時は財閥解体の真っ最中で、財閥に指定された企業の人聞が五十人以上集まって会社を作ることが許されていなかった。そこで、西村健次郎さんに頼んでGHQの許可をとってもらった。
 その当時のエピソードだが、会社設立案の扱い品目を説明するのに海苔の現物を持って行った。すると、GHQの係官は「このブラックペーパーは何だ」といってなかなか納得してくれない。「これは、日本特有の食品で、別にアメリカの害になるものではない」と説明して、やっと取り扱いを許可してくれた。西村さんは、当時、農林省の水産課長だったが、庁舎が焼けてしまったので、日本橋の高島屋の一角を臨時庁舎にしていた。西村さんは、われわれの面倒を実によく見てくれた。
 こうして発足した東京食品は、当然海苔にも力を入れ、間もなく始まった韓国海苔の輸入に活躍することになる。もちろん、実質的には私が取り仕切ったのだが……。当時、まだ私は海苔統制組合の筆頭常務で、一人一業と制限されていたから、商売も表立って出来ない。いろいろなことに片端から手を出してはいたが、まあ、不動の金縛りに会っていたようなものだ。
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